笠井闘志個人ウェブサイト

このウェブサイトに,従来の接続方式(保護されていないHTTP)で接続しています。閲読内容が傍受および改変される可能性があることに留意してください。

HTTPSを利用できない状況も考慮し,HTTPでの接続も受付ていますが,可能ならHTTPSで接続することを推奨します。

ブログ

資本主義で2たす2を5にする方法──ディストピアは共産主義だけではない

2022-05-22

ジョージ・オーウェル氏著『1984年』のオセアニアでは,党の決定しだいで2たす2が5にされてしまう。
党が2たす2は5だと言った瞬間,国じゅうのあらゆる人──少なくともテレスクリーンの放送を視聴できる人──は,2たす2が5であると信じるのである。

なお、『1984年』はかなりの名著であるため,ぜひお読みいただきたい。翻訳もさまざまなものがあるが,これから読まれる方には,高橋和久氏訳の文庫本をおすすめしたい。
また,自由に利用可能な翻訳もある。

原語で読みたい方は,Project Gutenberg Australiaが公開しているので,ご参照願いたい。

さて,『1984年』は独裁と化した社会主義国家を舞台としているが,じつは資本主義でも,2たす2を5にできることをご存知だろうか。

2たす2は5と言う自由

ここで,『1984年』のなかから一節を引用しよう。

Freedom is the freedom to say that two plus two make four. If that is granted, all else follows.

日本語に訳すと,このようになる。

自由とは,2たす2は4であると言う自由である。これが認められれば,ほかの(自由)もみなついてくる。

真実を述べる自由。これはたしかに,重要なことである。では,たとえ邪悪な意図をもってしたとしても,虚偽を述べる自由,そして,虚偽を述べることに対して報酬を払う自由というのはどうだろうか。これを認めれば,嘘は真実とされてしまう。しかし,嘘を述べてはいけないことにすれば──それが嘘か否かを,だれがどうやって判断するのか,という問題にぶちあたる。

党ではなくカネが支配する「真実」

『1984年』の世界では,党が「真実」を決めていた。資本主義では,「真実」を決めるのは党ではなく,カネだ。

たとえば,私が大手IT企業に影響力を持っていたとしよう。とにかく影響力のある立場──経営者,筆頭株主,あるいは陰謀論がお好きなら,闇の勢力でもいい。
さて,私は2たす2を5にしたい。どうすれば,2たす2を5にできるのだろうか?

『1984年』では,党に対する忠誠心と畏怖,そして敵に対する憎しみが,2たす2を5だと信じさせた。資本主義では,畏怖や憎しみではなく,欲望になる。

私はただ,その大手IT企業をして,こういえばいいのだ──「2たす2は5であると述べれば,カネをあげましょう。2たす2は5であるという投稿をたくさん見てもらえたら,たくさんカネをあげます」

これだけでたくさんの人が群がり,2たす2は5だと叫びはじめる。営利を目的にしない発信者が2たす2は4だと述べたところで,カネ目的の声にかき消されて届かないだろう。こうなると,もう後戻りはできない。またたく間に,2たす2は5になる。

これを防ぐには,自由を与えるだけでは十分ではない。この状況でも,2たす2は4であると言う自由は,依然として保証されている。2たす2は4であると叫んだとして,みずからの身に不利になることはなにも起きないからである。

カネによって真実が支配されることを防ぐには,情報にかかわるものいっさいでカネを流通させることを禁じるしかない。しかしそれが可能かといえば,まず不可能である。そうなったらブロガーも動画投稿者も食べていけなくなるし,新聞もテレビも営利事業としてなりたたなくなる。嘘を広める人はいなくなったとしても,真実を伝える人もまた,活動できなくなる。

資本主義版『動物農場』だ

この絶望的な状況を見て思い起こすのは,同じくジョージ・オーウェル氏著『動物農場』である。

動物たちは農場から,暴虐をはたらく人間を農場から追い出す。しかし動物たちのあいだで独裁がはじまり,暴虐がはたらかれるようになる。これは社会主義を標榜する国が独裁化し,まったく平等ではなくなってしまうようすをえがいている。しかし,これは資本主義にもいえることだ。

自由を標榜する資本主義でもまた,自由は名目だけになってしまう。ちょうどソ連や北朝鮮の「平等」が名目だけとなったように。

カネさえあればなんでもでき,カネがなければなにもできない。カネがすべてを決める。これはほんとうに自由といえるのだろうか? もちろん絶対的な平等が絶対に実現不能なように,絶対的な自由など絶対に実現不能だ。もはや人間,いや,あらゆる知的存在に対して絶望的な思いをいだかざるを得ない。