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西洋紀元2024年4月16日
近ごろ私は,みずからの食生活を菜食にした。これにはいささか奇妙ないきさつがある。本稿では,私の奇怪な体験を述べたい。
私は,幼いころから肉をあまり食べなかった。八歳ころからは,肉を食べようとすると気持ち悪くなり,のみこめないようになった。
舌が肉の味を感じると,のどのあたりから嫌悪感がわきあがってくる。感情や理屈ではなく,生理的なものだった。
だから私は,食事のときに肉を避ける必要があった。外食のさいは,肉が含まれていないものを選ぶため品書きを読みこんでいた。もし肉が含まれているものが出てきたら,肉だけを残していた。そして,合宿や団体旅行などに参加するときには,肉を食べられないむねを申込書の備考欄に記していた。
こういったとき,なんと書けばいいかが悩ましいところだった。家族は学校に,宗教上の理由で肉を食べることができない,と届出ていたそうである。しかし私は,肉食を忌避する信条を持っていたわけではなかった。肉を食べようとすると生理的な嫌悪感がわきあがってくるというものであり,それは思想や信条とは別である。
この状況は,アレルギーの医学的な定義には当てはまらないだろうから,アレルギーと記すことはできない。肉アレルギーなんて本当にあるのか,診断書を見せろ,などと言われたら答えに窮してしまう。
だから私は,肉が苦手,肉にアレルギーのようなものがある可能性があるといったあいまいな言葉を書くしかなかった。
肉を避けるためにもろもろの工夫をするのは,いささかめんどうに感じられた。それに,特別な料理を求めることは事務処理や調理の手をわずらわせるのではないかと案じ,申し訳なく思っていた。
いつかは海外を旅したいとも思っていた。肉を食べられれば,異言語で書かれた品書きを解読する必要はなくなる。肉を食べられないよりは,食べられたほうがいいだろうと考えたのだ。
私は肥満を気にしはじめていたため,糖質制限を試みていた。糖質もとらずにに肉も食べないとなると,選択肢は限られてくる。こういった事情もあって,肉をほんとうに食べられないか試してみよう,と機会をうかがっていた。
西洋紀元2022年のある夏の日,私はとある合宿に参加した。合宿の初日,夕食は屋外でのバーベキュー会であった。
夕空の下にこん炉が運ばれ,炭に火がともされた。太陽が山やまのあいだに沈み,夜の闇があたりをおおうころには,はじける火の音にまじって参加者らの笑い声がひびいていた。
私は,牛肉のひとかけを金網から箸でつかみとり,口に入れた。もし食べられなかったときに吐き出してもいいよう,いちばん小さいかけらを選んだ。
肉片が舌に触れた。私は慎重にそれを噛みくだき,のみこんだ。ついに,あの嫌悪感を感じることはなかった⸻私は,肉を食べられるようになっていたのだ。
家族は,私が肉を食べられるようになったことを喜んでいた。いつしか家族の団らんは,行列のできるハンバーグ屋か,これまた行列のできる焼肉屋でもたれることが常となった。しかし,かつて家じゅうにひびいた笑い声は,聞かれなくなっていた。
肉を常食しはじめてから,私の心身はむしばまれていった。
言語能力が低下した。頭に思いうかんだことを表現するのに適当な言葉が,なかなか出てこないのである。文をつなげて文章を成すことも難しくなった。
芸術的な感性も失われた。目に写る光景から詩情というべきものを感じることができなくなった。当然ながら,文で情景をえがくこともできない。創作の筆も止まった。
美術館に行って作品をまえにしても,ほとんどなにも感じない。遠い道を歩き,高い入館料を払って,ついには感動のひとつなく館をあとにしなければならなかった。
情報を処理することが面倒に感じられるようになったし,能力や効率も低下した。
予算と日程を決め,交通や宿泊を予約する。かつてはものの数分で,難なくできていたことだ。それなのに,予約内容の入力欄が,まるで難しい数学の問題のようにみえるのはどうしたことだろう。
人間関係を築く能力も下がった。ゲストハウスに泊まっても,ほかの旅人と親交を深めることができなくなった。同級生にも話しかけることが難しくなった⸻話の機会を逸したり,言葉が思いうかばなくなったりするのだ。
状況や相手との関係をみて発言することができなくなった。ものごとや考えを説明する能力も,いちじるしく低下した。
さきに述べたように,私はさまざまな能力が低下し,かつてできていたことができなくなっていた。その代わりに,食欲は激しくなった。そして食の嗜好が,あきらかに肥満をまねくものになった。ひかえようとしても,どうしてもアイスクリームやピザなど,いかにも肥満をまねきそうなものを食べたくなるのだ。
頭のなかはいつも食べることばかり。なにを食べようか,あれを食べたら太ってしまうか,でもこれでは満足できないだろう⸻。
パン屋に行けば,トレーのうえをパンで埋めつくして勘定台に置く。コンビニに行けば,食べものでいっぱいになったレジ袋を手にして出てくる。ファストフード店に行けば,席と勘定台を何往復もして,ハンバーガーやフライドポテトをいくつも平げる。そして焼肉屋に行けば,どうしてもご飯ものやアイスクリームなどを注文してしまう。当然ながら体重は増え,半年のうちに十キログラム以上増加した。
私は,勤勉であることをよしとする文化のなかで育った。たらふく食べて横になり,インターネットで低俗な娯楽を消費する⸻こんな自分の姿に嫌悪をおぼえたが,どうすることもできなかった。
同じ年ごろの若者たちは,友と仲むつまじく肩を組んで歩き,難しそうな文芸書を片手に議論を交わし,アルバイト先で熱心に働いている。それなのに私はどうだ?
友人をさそって外出することはほとんどないし,本を読んでも言葉が入ってこない。恐怖の大王におそれおののく時代も過去となったのに,なぜ私は青春の日々をこうもむなしく過ごさねばならないのだ?
私は,否定的で破滅的な考えにとらわれるようになっていた。
私が肉食をやめたきっかけは,肉を食べはじめてから太ったねと家族に言われたことだった。
私は肥満を非常に気にしていた。鏡に映る自らの姿を見るたびに,嫌悪感がわきあがる。台所にある包丁で腹の脂肪を切る,という夢を見たこともあった。
肉を食べはじめるまえから徐々に太っていたと記憶しているから,肥満の原因は肉食ではないだろう。それに,糖質制限にあたっては肉を食べられたほうが有利だ。そう考えていたため,肉食をやめることに対しては抵抗があった。だが,やせるためにはなんでも試してみようと思い直し,肉食をやめた。
それから数日のうちに破滅的な考えは吹き飛び,思考も明瞭になった。
上下巻に分かれた単行本の小説が,本棚のなかで読まれるのを待っていた。半年前に古本屋で買ったものだ。私はその小説を手にとり,わずか三時間のうちに上下巻あわせて読破した。
食欲も減り,以前の三分の一ほどの量で満足するようになった。肉食をやめてから一ヶ月のうちに,五キログラム減量した。
インターネットの利用時間もいくぶんか短くなり,訪れるウェブサイトも文芸や社会,情報技術,文房具のたぐいが多くなった。
一年半ぶりに,幸福の意味するところを思い出したようだ。
肉を食べることによって,もろもろの不調をきたした。そして,肉食をやめたら回復した。こういった経験をした以上,これからは肉を食べないことにする。
2022年以前は摂取していた魚介や肉汁,卵や乳といったものも,今後は避けるつもりだ。ヴィーガンに近い食生活となるだろう。
私に災いをもたらしたものは,肉に含まれているもののなにかはわからない。飼料や環境から動物が摂取する化学物質のたぐいなのか,それとも,もしかしたら超自然的なものなのかもしれない,と思うこともある。あるいは,肉そのものではなく,肉とともに口にするもの⸻たとえば調味料とか⸻かもしれない。
私の身に起きたことが,他人にも起きるとは限らない。冒頭で述べたように,私は幼いころから肉を食べられなかった。だから,肉食は普遍的に有害であるというつもりはない。