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自由ソフトウェアについて簡単に説明すると,自由に中身を見ること,実行すること,改変すること,そして改変の有無にかかわらず頒布することができる・許されているソフトウェアのことである。
私は自由ソフトウェアの理念に賛同し,これを支持する。自身が利用するソフトウェアについては,可能なかぎり自由なものを選んでいる。そして,もし私がソフトウェアを開発する場合は──そのソフトウェアに係る権利が自身に帰属するときには──自由ソフトウェアとするつもりだ。
自由ソフトウェアの具体的で詳細な定義は,自由ソフトウェア財団が公開しているので,こちらを参照されたい。
ソフトウェアというのは,コンピュータに入力する計算式のようなものである。物理的実体がある商品よりは,語学などの技能に近い。コンピュータに覚えさせることができる技能,と例えられるだろう。
なにがしかの言語を習うとしよう。もしその言語がどこかの会社によって著作権を主張されていて,文法に沿わない言葉遣いは著作権侵害とみなされ,その言語を商用に使うときは権利者に金を払わなければならず,その言語を権利者に無断で他人に教えてもいけないとしたら,ずいぶんと窮屈に感じないだろうか? 自分の作品をその言語で書きたいと思うだろうか?
コンピュータを使うなら,ソフトウェアの自由について関心を持ち,可能な限り自由ソフトウェアを選択すべきである。この節では,その理由を述べる。
自由ソフトウェアを活用すれば,個人あるいは組織のコンピュータから情報を出さずに処理することができるし,コンピュータや情報を自分(たち)の手で制御することができる。
自由ソフトウェアだけを使うことで,自分(たち)のコンピュータで動作するソフトウェアに自分(たち)が最終的な責任を負うことができる。ある企業が顧客の機密情報を管理するとき,不自由なソフトウェアやSaaSS(サービス代替としてのソフトウェア)を使っているなら,顧客はその企業に加えて,不自由なソフトウェアやSaaSSの提供者をも信頼しなければならない。しかし,自由ソフトウェアだけを使って管理しているなら,その企業だけを信頼すればいい。
また,これは自由ソフトウェアが提唱された理由でもあるのだが──自由ソフトウェアはそのソースコードを自由に閲覧・改変できるため,ソフトウェアの動作を研究したり,改良したり,自分(たち)の目的に合ったものに作りかえたり,あるいはそれを他者に依頼したりすることができる。もしソフトウェアになんらかの不満があり,しかし運のいいことに隣に情報技術者がいる,という場面を想像してみよう──自由ソフトウェアなら,その技術者に依頼して修正してもらえばいい。不自由ソフトウェアなら,そのソフトウェアの権利者に連絡して修正してもらわなければならない。そしてあなた自身が情報技術に長けているとしよう──自由ソフトウェアなら,自分で修正できる。不自由ソフトウェアなら,やはり権利者に修正してもらわなければならない。
私は,自分のコンピュータや自分が扱うデータを可能な限り完全に制御したい。
後述するように,私はコンピュータで作品や私信,会計記録などを扱っている。これらのデータをすべて自分の手で管理したい。利用規約の改訂やライセンス切れ,会社の事業合併など,自分の与り知らぬ要因によってデータを読み出せなくなる,ということがないようにしたいのだ。これがまさに,私が自由ソフトウェアに惹かれた理由である。
私は幼い頃から──六歳のときからコンピュータを使っていた。そのコンピュータはインターネットにはつながっていなかったが,文書編集ソフトウェア(不自由な "Microsoft Word" だったが)が入っていたので,それを使って短い物語を書いたり,架空の出来事を扱った新聞を作っていたりしていた。
歳を重ねるにつれ,作品を創造して頒布したり,紙とペンでは難しい情報管理を行ったりするにあたって,コンピュータが非常に有用な道具であるということが分かってきた。それと同時に,ソフトウェアが著作権によって束縛されているため不自由な道具である,ということも分かった。搭載されているアプリケーションソフトウェアの説明には,「当社はお客様に対してこのソフトウェアに係る非独占的な利用許諾を与え──リバース・エンジニアリング,複製などを禁じます」といった堅苦しい文言がつらつらと並んでいる。童話全集を繰り返し読んで培った読解力を駆使して読み解いてみると,どうやらこのソフトウェアは──自分の所有する機器の上で動かしていようとも──自分のものではなく,権利者は恣意的に私からこのソフトウェアを取り上げることができるようだ,と解することができた。
だから私はコンピュータの持つ可能性に驚き感激しながらも,その不自由さを意識して使っていた。その不自由さは,コンピュータを使う以上避けることができないものだと思っていた。私は,取り上げられたくないことにはなるべくコンピュータを使わないようにした。
2022年の春,ウェブサーフィンをしていたらGNUプロジェクトのウェブサイトを見つけた──これだ,と思った。私がコンピュータや情報技術に対して抱いていた,不自由な感覚,居心地の悪さというものが解き明かされ,するするとほどけていくように感じた。不自由ソフトウェアを使っていたから(そして利用許諾契約を意識していたから)不自由や居心地の悪さを感じていたのだ。
こうして私は自由ソフトウェアを支持するようになったのである。
ここまで「不自由」だとか「居心地の悪さ」だとかいった否定的なことや暗黒面ばかり書いてきたので,もっと楽しい話を。私は,自由ソフトウェアというものはコンピュータの面白さを最大限に高めるものだと思っている。ソフトウェアを自由に使うことはもちろん,自由に学ぶことも,改造することもできる。もしあなたがコンピュータに胸をときめかせるなら,自由ソフトウェアについて関心を持つはずだ。本稿の「関連文献」節を見てほしい。
この節では,自由ソフトウェアを支持している現在,私が日常のなかでどのようにコンピュータを使っているか,ということを述べる。
念のために付記しておく。この節は,コンピュータの使い方について,また自由ソフトウェアの理念の実践において,「正解」を主張しているわけではない。自分自身がどう行動すべきかということは,結局のところ自分で考えて判断するしかないのだ。
残念なことに,社会生活を送るうえで,不自由なソフトウェアを一切使わない(自分の所有する機器上で実行しない)ということは難しい。
文字だけのウェブサイトを閲覧するだけならこの限りでないが,さまざまなウェブサイトを閲覧するにあたっても不自由なJavaScriptの実行を余儀なくされる──ウェブサイトにプログラムが埋め込まれていて,自分のコンピュータ上で実行されるのだ。そしてそのプログラムの多くが不自由なのだ!
パーソナルコンピュータのBIOSやスマートフォン(もちろんこれもコンピュータの一種だ)のモデムドライバは不自由ソフトウェアだ。自由なBIOSや自由なスマートフォン向けOSも開発はされているが,インストールすること自体が難しすぎる。
いまでは,複数人の連絡にはLINEでグループチャットを利用することが当たり前に行われるようになった。活動を発案したその場でグループチャットを開設する,という場面も見たことがある。しかし,そのLINEも不自由ソフトウェアだ。
飛行機や宿を予約するときに,ウェブサイトから予約することが多いだろう。なかには,ウェブサイトからしか予約を受け付けていないところもあるし,あるいはウェブサイトからの予約だと大幅に安くなるところもある。しかし,この予約時にアクセスするウェブサイトは十中八九JavaScriptが使われていて,それは十中八九不自由ソフトウェアだ。
これだけ例を挙げれば,不自由ソフトウェアを避けることがどれだけ難しいかが分かるだろう。現代社会のなかで生活するには,どこかで妥協し,不自由なソフトウェアを実行しなくてはならない。しかしそれでも,できる限り不自由なソフトウェアを避ける努力はできる。
自由ソフトウェアについて知ってからというもの,私はこの妥協点をどこに置くかについて悩んだ。いまのところの結論は,「容易に置き換え可能かどうか」,と「個人的な活動,または自発的な活動かどうか」である。
容易に置き換えられるもの,すなわちパーソナルコンピュータのオペレーティングシステムやアプリケーションは自由ソフトウェアのみを使う。他方で,BIOS,スマートフォンのオペレーティングシステムといったものは,不自由であっても使っている。これらを自由なものに置き換えることは,対応したハードウェアを手に入れなければならずかなりの経済的負担となること,また非常に高度な技術的知識と能力がなければ不可能であることから,現時点では諦めている(経済的に,そして技能的に可能であれば置き換える)。
個人的な活動,ということにも説明が必要だろう。個人的な活動というのは,個人誌や小説を書いて印刷したり,家計を管理したりといった,(少なくともコンピュータの使用が)個人だけで完結させることのできる活動を指している。たとえば個人的な記録のほか,最終的に印刷したりPDFにしたりして提出する文書を作成するにあたっては,自由ソフトウェアであるLibreOffice Writerを使う。個人的な活動に係るデータはすべて自身の所有する機器や媒体に保管し,「クラウドストレージ」に預けることはない。
また,(社会的な義務ではなく)自発的な活動の場合にも自由ソフトウェアだけを使っている。印刷所などにデータを入稿するさい,そのデータは自由ソフトウェアで製作する。自由ソフトウェアで製作できるフォーマット(PDF,SVGなど)での入稿を認めている印刷所だけを使う。
私が発案者あるいは中心人物となってプロジェクトを行う場合,私にソフトウェアを選択する権限があるなら,そのプロジェクトでは不自由ソフトウェアを使わない。製作や連絡にあたっても,可能な限り自由ソフトウェアだけを使うつもりだ。
他者と協同してなにかのプロジェクトを遂行する場合,あるいは企業,学校,団体といった組織における活動で自分の機器を使う(BYOD)場合,しばしば不自由ソフトウェアの実行を求められる。これを拒否するなら社会生活に支障が出るため,妥協せざるを得ない。
もし組織で機器を貸し出してくれるなら,(機密保持や防犯,社会的純潔の観点からも)貸し出してもらったほうがよいだろう。自分のコンピュータではないから,ソフトウェアが自由かどうかにこだわることはない(自由ソフトウェアを使えばいいのになぁ,とこぼすことはあるかもしれないが)。
だれかに依頼されて引き受けたこと,学業上の課題といったものは,自由ソフトウェアのみで遂行することができない場合に限り,最低限,不自由ソフトウェアも使っている。たとえば,"Wordファイル" で提出を求められたら,Microsoft Wordを使わずLibreOfficeからdocx形式にエクスポートして提出する。
しかし,LINEグループに参加する必要があれば(参加しないで活動することができず,メンバーの大多数がLINE以外の通信手段を望んでいない場合),仕方なしにLINEを使う。LINEに自由ソフトウェアのクライアントがあればいいのだが,非公式なものも含めて,自由ソフトウェアのLINEクライアントが開発されているという話を聞いたことがない。(注:公式のLINEクライアントソフトを改造するXposedモジュール「LIME」というものが開発されていることを知った。LINEクライアントが自由ソフトウェアになるわけではないが,広告やVOOMといった目障りなものを一掃できる)
そもそも不自由なソフトウェアを使わざるを得ない依頼は,よほどのことがないかぎり引き受けることがない。そしてほとんどの場合,自由ソフトウェアだけで依頼に応えたり学業課題を遂行したりすることができるものである。喜ばしいことに,事務処理や画像編集の分野では自由ソフトウェアが活発に開発・保守されている──たとえばLibreOffice,GIMP,Inkscapeといったソフトウェアが手に入り,これをら活用すれば文書やスライド,画像を製作できる。
スマートフォンを機能させるために欠かせないソフトウェアのほとんどは不自由である。スマートフォンから不自由ソフトウェアを除くことは極めて困難である。
私の使っているスマートフォンはAndroidであり,Googleによる束縛を避けるためGoogle関係のアプリをすべて無効化している。その上で,F-Droidから入手するアプリだけを使っている。この唯一の例外が,グループ活動で必要になるLINEである。LINEはグループチャットのみに使い,個人的な連絡には一切使っていない。
スマートフォンや携帯電話回線に関しては,ソフトウェアの自由以外にも,個人情報保護やネット依存といった問題がある。私は,スマートフォンを持っていく必要がある場合(遠くを旅するのでOsmAndで地図を見る必要がある,など)以外は,スマートフォンを持ち歩いていない。
自由と自主性を守るためには,スマートフォンに担わせる役割をなるべく減らす必要があるだろう。情報管理については,できるだけラップトップやシステム手帳といった他の道具で行うようにしている。
つい最近まで,ウェブサイト上でのJavaScriptに関してはほとんど自由を意識せず,こだわらずに実行していた。自由ソフトウェアのみを含むオペレーティングシステムを使い,無線LANアダプタのドライバすら拒否していたのに,ウェブブラウザで実行されるJavaScriptにはほとんどこだわっていなかったわけだ。
近頃,インターネットの使い方について思うところがあり,新しい方針を決めた。少なくとも私的な興味感心を満たすために閲覧・利用するウェブサイトでは,不自由なJavaScriptを実行しないことにする。
政府や勤務先,学校から求められた場合のほか,交通機関や宿泊施設を予約する場合,および通信販売で買い物をする場合には,妥協して不自由なJavaScrptを実行せざるを得ない。しかしこれらもまた,最低限にとどめるつもりだ。
交通機関や宿の予約にあたっては,ウェブを介さないと切符を買えない/泊まれない(または運賃/宿泊代金がべらぼうに高くなる)場合(かつ,不自由なJavaScriptが必要な場合)にのみ不自由なJavaScriptを実行する。交通機関や宿を探す際にも,まずは不自由なJavaScriptの実行を必要としない方法──LibreJSを効かせたブラウザで検索する,OpenStreetMapで探す,観光案内所や看板を見るなど──を試すことにする
私は地方都市に住んでいるから,一般的な食品や生活用品を除いて,通信販売を利用せずに物を買うことは難しい。それでも,まずはなるべくオンライン通信販売を避けることにする。近隣のより大規模な都市や,東京,大阪といった超大都市を訪れる機会があれば,そのときに必要な物を買う。自由ソフトウェアのドライバに対応した印刷機が欲しいなら,東京滞在期間を一日延ばして秋葉原電気街を歩き回る。欲しい本が近くの書店に見当たらないなら,より大規模な都市を訪れるときに書店に立ち寄ってみる。
たとえば一週間以内に必要だとか,日本国内では取り扱っていないとかいった場合,つまりどうしてもオンライン通信販売を使わざるを得ない場合は,できるだけ不自由なJavaScriptの実行を必要としない販売サイトを使う。
もしどの販売サイトも不自由なJavaScriptの実行を必要としていたら,まずはその製造・販売元の公式ウェブサイトから注文できないか試してみる。不自由なJavaScriptの実行を必要とする点ではAmazonも同じであるが,小売業をAmazonに独占されることはよくないと思っているので,「Amazonでしか買えない商品を,どうしても必要な場合(こういう経験は一度たりともないが)」を除いてはAmazonを使わない。誤解を避けるために付記しておくと,私はいかなる市場独占・寡占をも嫌っているのであって,Amazonだけを忌避しているわけではない。
自由ソフトウェアについてさらに知りたい方のために,参考になる資料を示したい。
こういった問題は,なにも情報技術に関することに限られないはずではないか?
そのとおり。農作物の種子さえも不自由になることがある。ほかの分野であっても,それは重大な問題だと思う。
われわれの生活はすべて社会の諸制度や他者の仕事に依存している。食料やエネルギーが供給されなくなれば文明を維持できなくなることは確かであるし,この社会を構成する人々がそれぞれの仕事を放棄すれば,社会はあっという間に崩れる。われわれはそれを受け入れ,それを前提として社会をつくっている。言い換えれば,人々がそれぞれの仕事を遂行すること,社会の諸制度が正しく機能することを当然のごとく期待している。なぜ,ソフトウェアに限っては受け入れられないのか?
この質問の前提が間違っている。ソフトウェアは,食料やエネルギーとは違い「供給」されるものではない。そして公共交通などの役務とも違い,動作するたびごとに(開発者や権利者の)労働や資源消費が発生しているわけでもない。
ソフトウェアとはコンピュータに与える指令の組み合わせである。「コンピュータが読む本」という例えもできる。本はいちど書かれ印刷されれば,何度でも読むことができる。
あなたは自由にこだわるあまり,可能性を捨てている。DRMつきの映画や不自由なゲームを享受できず,不自由なクライアントソフトを必要とするSNSで友人と交流することもできない。あまりにももったいないことではないか?
ゲームをしたり(映画館ではなく自宅で)映画を観たりといったことが私にとって重要なら,私はそれらを例外に加え,不自由ソフトウェアも利用していただろう。でも,私にとってそれは重要なことではない──自由のほうがより重要だ。
いまの私はゲームをしないし,映画を観るとしたら映画館に行く。友人と連絡をとるにしても,郵便と電話と電子メールを使う。私はこれに不満を感じていない。
他者と関わったり,意見を発信したり,情報を入手したりといったことを特定のプラットフォームに依存したくはない。そのプラットフォームから追い出されるかもしれないし,不利な扱いを受けるかもしれない。そのとき,代替の手段をすぐに見つけられるだろうか──ほかのプラットフォームに乗り換えられるだろうか?
あなたは自由にこだわるあまり,可能性を捨てている。不自由ソフトウェアのなかには,自由ソフトウェアより機能が優れていて便利なものもある。優れた機能や利便性を享受できないのはもったいない。
その優れた機能や利便性もまた不自由なものであり,ライセンス認証を求められたりコピーが許されなかったりする。自分の活動が不自由なソフトウェアに依存してしまうことを避けたいから,自由ソフトウェアを使っているのだ。
不自由ソフトウェアを避けることは迷惑である。組織や業界が不自由ソフトウェアや不自由なファイルフォーマットに依存していることは往々にしてある(だって仕方がないだろう──いまさら乗り換えろというのか?)。自由ソフトウェアで入稿されたり提出されたりしたら,レイアウトが崩れて作業に支障が出る。
不自由なソフトウェアを避けることは迷惑である。LINEグループやSlackに入れず(注:LINEもSlackもチャットサービスで,どちらもクライアントは不自由),チームで使うMicrosoft WordやAdobeを使えない!
LINEはグループ連絡専用に使っているし,Slackも必要なら(そして自由ソフトウェアに置き換えることが望まれないなら)使うだろう。
不自由なアプリケーションソフトウェアを活動で使うなら(自由ソフトウェアに置き換えられないなら,そしてその活動に参加したい・参加しなければらならないなら),そのときは例外である。Windowsにしか対応していないとしても,中古ショップでWindows機を買ってくる(そして活動が終わったら売り払う)とか,いくらでも方法はある──ただし,不自由ソフトウェアの利用許諾費は決して,自分の財布からは出さない。そして後述するように,違法複製版も使わない。
自由だの不自由だのと言っていないで,何でもかんでも勝手に複製したり改造したりすればいいじゃないか。有料の不自由ソフトウェアだって「割れ」(違法複製版)を使えばいいだろう。どうせばれなきゃいいんだし,訴状が送られてくるまで堂々と使いつづければいい。
こういった行動は著作権法違反であり,すなわち違法行為である。禁じられた使い方である。だからいつ,裁判所の命令やその他の強制力によって使えなくなるかわからない。一方で,自由ソフトウェアは複製することも改造することも最初から許されている。
繰り返すが,これは禁じられた使い方である。違法複製や改造を検知し,動作しなくなるソフトウェアもある。動作が不安定になっても,それを他人に相談することは自分の違法行為を暴露することになるから,なかなか相談しにくいだろう。一方で,自由ソフトウェアなら困ったときの対処法を見つけるのにも容易いし,ユーザーフォーラムにも相談できる。
使用を禁じられることがない,というのが私が自由ソフトウェアを使う理由のひとつである。使用を禁じられるおそれのある不自由ソフトウェアは使いたくないし,すでに禁じられているものなどなおさら使いたくない。
自由と自主性を失うことをそこまで恐れるなら,コンピュータを使うことをやめて,謄写版とフィルムカメラの時代に戻ればよいのてはないか?
たしかに,そもそもコンピュータを使わなければ不自由ソフトウェアの問題も生じない。だが,作品を製作して頒布したり,さまざまな情報をやりとりしたりするにあたって,コンピュータは非常に便利で有用である。だから私はコンピュータを使いつづけたい。
自由と自主性を保ったままコンピュータを使うには,自由ソフトウェアを選択するしかないのである。
コンピュータというのは,社会的,商業的な仕組みや役務にアクセスするための端末のようなもの,いわば(固定電話の)電話機のようなものではないのか?
コンピュータを(インターネット上の役務などの)「端末」としてしか使わないのであれば,自由にこだわる必要はないだろう。しかし,私はそうではなく,コンピュータを創作や情報管理などに使いたいのである。