現在,私はこのウェブサイトから収益を得ていないし,将来にも得ようとはしていない。
その理由を端的にいえば,対価として金銭を受け取り記事を読ませる,ということがウェブの仕組み上現実的に困難だ,ということである。
読者以外を客とする,つまり読者以外の意向に沿うことによって対価を受け取るというのは,いちばん避けたいことである。まず,これにより広告やアフィリエイトといった選択肢は消滅する。
しかし,自主性やプライバシーを保護しながら金銭を受け取る方法はなく(暗号通貨も普及率や取引所の関係から困難),閲読権を購入した読者だけに記事を読ませる仕組みを構築するのも,これまた困難なことである。
私がはじめてレンタルサーバーを借りてウェブサイトを運営したのは,十六歳のときだった。
当時はWordPressを使ってブログを構築していた。WordPressというのは,世界で最も使われているブログシステムであり,サーバーに導入できるPHPで書かれた自由ソフトウェアである。
このWordPressは任意のプラグイン(追加機能)やテーマ(見た目の設定)を導入でき,高度な技術的知識を持たなくてもウェブサイトを運営することができる。
私はWordPressの操作方法を学びはじめ,本からウェブ上の記事まで,さまざまな資料を読んだ。そこでよく目にした言葉が「収益化」だ。
私は単純に,自分の趣味を共有するためにブログを書いていた。しかし,書店の「パソコン書」売場にある本の題名を見るたび,ブログを「収益化」しなければならないのではないか,「収益化」することが正しいのではないかと思うようになっていった。
そして私は,ブログの「収益化」に関して調べてみた。具体的にどのような仕組み,方法で「収益化」されるのかを知るうちに,どうにも居心地の悪いものを感じるようになった。
Googleの広告システム「Googleアドセンス」は,一定の年齢(たしか十八歳だったと思う)に達するまでは利用できない。利用するかどうかは十八歳になってから決めるとして(先述のとおり一極集中という問題がある),当時の年齢でも利用できる広告システムに加入することにした。
また,紹介する商品(自分が実際に使ったものだけを紹介したはずだ)へのアフィリエイトリンクも貼ったが,おそらくAmazonや楽天の販売ページにアクセスさせないと私の収益にならなかったはずだ。それでもやはり一部企業への集中を懸念したため(多少収益が低下することを覚悟の上で),書籍についてはe-honの販売ページへのリンクも併記していた。
私が自由ソフトウェアについて知り,また個人情報保護や監視社会などの問題を考え始めたのは2022年の3月であった。このとき考えあぐねたあげく,「ブログで稼ぐ」ということを完全に放棄した。
当時はコロナ時代であり,私は遠からぬうちに文明や社会が崩壊するだろうと思っていた(付記しておくと,この文明がいつまでも続くとはいまでも思っていない)。どうせこの文明が滅びるなら,あるいはたとえ滅びずとも変容を余儀なくされるなら,金銭ばかりを追い求めず自分のやりたいことをやるのが一番いいのではないか?
こうして私は「ブログで稼ぐ」ことを放棄したのであるが,その時点ではどのようにウェブサイトを運営していくか,という方針が定まっていなかった。それから三年近くが経ち,ウェブサイト運営に関する考えや方針がある程度固まってきたので,この記事を改稿する次第である。
インターネットでの情報発信から収益を得る方法としてよく知られているのは,ウェブサイトに広告を「貼る」,あるいは商品を紹介する対価として,広告事業者やその商品の販売者などから金銭を得るというものだ。
この方法にはいくつもの問題がある。ウェブ広告の問題がいかに大きいかということは,広告ブロッカーの人気の高さから十分推し量れるだろう。だからウェブ広告に関する問題をここで列挙はしない。
ここで扱うのは,プライバシー保護に関する問題である。
ウェブサイトに広告を「貼る」というのは,広告貼紙を壁に「貼る」こととは本質的に違う。駅の壁に貼られた貼紙は(『一九八四年』のテレスクリーンじゃあるまいし!),通行人に見られることはあっても通行人を見ることはない。
他方,私たちがウェブ上の広告を見るとき,広告もまたこちらを見ているのだ。ウェブサイトに広告を「貼る」というのは,広告事業者の事務所に通じる「どこでもまど」を置くことに近い。読者のウェブブラウザは,ページに書かれた指示に従い,広告事業者のサーバーと通信する。広告事業者は,どのページを閲読しているか,読者がいかなる人物かということをふまえて,その読者に買ってもらえそうな商品の広告を表示しているのである。
ではなぜ有料記事を書いて売らないのか,ということである。
読者からお金をとって記事を販売したらいいではないか,という指摘はごもっともだが,それがウェブの仕組み上難しいのである。
作品や知識と引換えに金銭を受け取るというのは,少なくとも近代以降においてはありふれたことだろう。その仕組みがなぜ機能しているのかというと,その作品や知識といったものが物理的な媒体や時間空間に拘束されているからである。そして,ウェブの意義というのは作品や知識を物理的媒体や時間空間の拘束から解き放つことにあるのではないだろうか。
本が商品として成立するのは,本に物理的な実体があるからである。本は印刷と製本という工程を経て「製造」されたものであり,手で触れるし置いておくことができる。もちろん蜜柑や人参,腕時計や万年筆のように売り買いすることもできる。
多くの読者にとって,本とそこに書かれた文章は分かちがたいものである。普通に本を読んでいるとき,その本からいま読んでいる文章を分離するなどということは考えつかないだろう。
たとえコンピュータ時代であっても,そして著作権をまったく気にしないとしても,本から文章を分離することは骨の折れる作業だ。印刷された文章をテキストデータに起こすことを考えてみよう。スキャナで一頁ずつ読み込み,それをOCR(光学文字認識)にかけて誤りを修正する。これを長編小説の単行本に対してやるとしたら,どうだろうか?
この難しさこそが,本を商品として成立させている要因のひとつだ。文章と本が分かちがたいとき,文章を読みたいなら本を手に入れるしかないわけである。
それでは,ウェブについて考えてみよう。ウェブのなにがそんなに魅力的で革新的なのか──世界のどこからでも,物理的な媒体を介することなく,文章を文章のままやりとりできることではないのか? 文章を受け取れば,自分の好きなように表示を調節することもできる──文字の大きさを変えたり,色を変えたり。音声合成ソフトで読み上げることも,機械翻訳にかけることも,友人に転送することもできる。
この「ウェブの本質的な意義」は「本の商品性」と混ざり合わない。水と油のようなものだ。でも,水と油を界面活性剤で混ぜ合わせるように,無理やり混ぜたら? ウェブと本の悪いところ取りになってしまう。複製できないようDRM(技術的な束縛)がかけられ,専用のソフトウェアを使わないと読めない。文字の大きさも色も好きなようには変えられず,音声読み上げ機能は文章を読み取れず,機械翻訳もできない。物理的な本が持っていた制約を元通りにしてしまう。そしてしばしば,物理的な本が持っていなかった不自由さまでもついてくる──書店を選ぶことはできないし,どこまで読んだかを本が勝手に報告してしまうのだ。
さきにあげたのは極端な例だが(その極端な例でさえ珍しくはない),そうでなくても「対価を払った人にだけ記事を読ませる」ようにするには,やはりなんらかの形で自由やプライバシーを害することになるだろう。ふらっと立ち寄って本を買える書店のようにはいかないのである。
私はこのウェブサイトの記事を,誰でも読むことができるようにしたい。もし有料記事にするなら,誰でも金さえ払えば読むことができるものにしたい。このとき,支払い方法が大きな障害となる。
現在,インターネットを介した支払い方法としていちばん使われているのは,クレジットカード決済網だろう。クレジットカードは十八歳になるまで発行されず,デビッドカードも十五歳未満には発行されない。十二歳の少年が私の記事を読みたいと言ったとき,三年間も待てなどとは言いたくないのだ。
プライバシーを保護し,誰でも使える決済システムとして適切なのは暗号通貨だろう(ビットコインやモネロは自由ソフトウェアである)。しかし暗号通貨は,政府の規制や取扱事業者の自主規制により,誰でも使えるとは言い難い。わが国では,十八歳未満は暗号通貨取引所の口座を開設できない。また,口座開設にあたっては本人確認が要求される。それに,暗号通貨は国内市場において決済手段として普及しているかと問われると,否と答えざるを得ない。
自由なウェブと記事からの収益とは,おそらく両立しないだろう。
ちなみに私は,紙の本というのはなくならないと思う。私にとっては画面上で読むより印刷して読むほうが内容を理解しやすいので,著作権が切れて青空文庫で公開されている小説をわざわざ印刷して読んだこともある。また,本は本棚に並べれば見つけやすいし,電池切れの心配もいらない。ある程度長い文章,とくに小説や紀行文のような「最初から最後まで読み通す」文章であれば,本への需要はなくならないはずだ。
文章を理解しやすい,というだけではない。紙の本でしかできない芸術表現もあるのだ。
近頃,筒井康隆氏の小説『残像に口紅を』を読んだ。私が読んだのは復刻版であり,元の版にある袋とじも再現している。元の版では,袋とじ未開封の場合に限り出版社に持参すれば返金してもらえる,という仕組みになっていた(ちなみに,返金を求めてきた読者は一人もいなかったそうだ)。こういった表現方法ができるのも,紙の本ならだろう。
円城塔氏の『文字禍』も,紙の本ならではの表現を使った面白い作品だ。なんと,ルビがルビ本来の役割を果たさず,本文とは別の語りになっているのだ。これをHTMLでやったら,ruby要素の本来の使い方ではないので,テキストブラウザや音声読み上げソフトでの閲読に支障が出るだろう。紙の本だからこそ,ruby要素やらルビ本来の使い方やらといったことを無視した芸術表現ができるのだと思う。
文章や図表だけを読めればよいというものであっても,完全にウェブや電子書籍に取って代わられることはない──紙のほうが読みやすいという人もいるから,紙の本とウェブ・電子書籍は共存するだろう。
誤解を招かないように付記しておく──私はインターネットの商業利用を否定しているわけではない。さまざまなサービス(レンタルサーバであったり,自由ソフトウェアのホスティング──電子メールやMastodonなど)を有償で提供したり,商品の注文を受付けたり,自社・自身の商品を紹介したりといった使い方はむしろよいことだだと思っている。そもそもインターネットが登場した当初,人々はこういった形で経済が活性化すると期待していたのではないか。
私は,自分がなぜブログで稼ごうと思っているのか,と考えるようになった。なぜ「ブログ」と「(お金を)稼ぐこと」を結びつけなければならないのか? なぜウェブサイトを運営するときにそこからお金を稼がなければならず,あるいはお金を稼ごうと思ったらなぜウェブサイトからでなければならないのか?
われわれの生活を支えているのは,物資を配送したり,電気配線を接続したり,旅客機を操縦したりといった仕事である。これらの重要な仕事のほとんどは,ウェブやインターネットと関係しない。この時期に私もいくつかアルバイトを経験したが,どれも業務連絡以外でインターネットを使わないものだった。
実際に私が(アルバイトという形態ではあるが)仕事というものを経験し,そして自分の生活がどのような仕事に支えられているかを考えたとき,「ブログ」と「稼ぐこと」を結びつける必要はない,と思い至ったのだ。
そしてまた,現在,および想定される将来の私にとって,インターネットだけで完結する仕事を求める必要はないだろうとも思った。世界一周をしながらノマドワークをするのであれば,コンピュータとインターネットさえあればできる仕事を探すだろう。でも私は,いまのところ世界一周を計画しているわけではないのだ。
この方針について,よくあるのではないかと思った質問をいくつかあげ,その返答を記した。
もしこのウェブサイトを運営する資金がなくなったら,そのときはウェブサイトを閉じる。しかし,ウェブサイトの運営費用はそこまで高額ではない──とくに,こういったシンプルなウェブサイトの場合。サーバ代やドメイン代が極端に値上げされないかぎり,金銭的な理由で運営できなくなることはないだろう。
経済的に運営が厳しいと認識した段階で,ほかのより安いホスティングサービスに乗り換える。それでもなお厳しいなら,ウェブサイトを閉じる。そのときは,ウェブサイト以外のより安い方法で自身の作品を頒布できないかを模索するだろう。
この「将来」という言葉がなにを意味するかで答えが違うのだが,これが端的にお金を意味しているとしても,「つながるだろう」と言える。
たとえば雇用を得ようとするときや事業を始めようとするときに,私の経歴や文章力といったものを示すことができる。また,もし事業をはじめたとしたならば,自分の事業を紹介するために使うこともできる。
もちろん,未来の自分がなにを考えるかは分からない。未来のことはなにひとつ分かるはずがない。たとえば私は,高校入学時に思い描いていたものとは大きく異なる進路をとった。信じていたものに背を向けたこともあるし,考え方を大きく変えたこともある。
かりに私が突然方針をころりと変えてウェブサイトを収益化したら,「あの気味の悪い奴め,こんどは前言撤回しやがったぞ」と噂が立つだろう。しかしそのときの私は,そんな噂を苦にしないかもしれない。未来の自分がどうなっているかはまったく分からないし,未来の自分を拘束することなどできない。
本稿は未来の自分を拘束するためのものではない。経済とインターネットについて考え,結論としてウェブサイトから収益を得ることを諦めるに至ったということを述べたものである。
このウェブサイトの記事が永遠に自由に読めることを保証するのは本稿ではなく,各記事に付したクリエイティブ・コモンズ・ライセンスである。このライセンスは撤回不能である。万一私がこのウェブサイトを「収益化」するなどということを考え出したら,記事を複製して別のところで公開すればいい。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの規定に沿っている限り,著作権侵害のかどで訴追することはない。
もし,読者の自主性とプライバシーを尊重しつつ,記事閲読権あるいは電子書籍といったものを売る方法を見つけたら,誰でも金さえ払えば読むことができる仕組みを整えられるようになったら,そのときは記事閲読権あるいは電子書籍と呼ぶべきものを売るかもしれない。こういう事態でいちばん想像しやすいのが,暗号通貨がいたる所で使えるようになり,子どもも旅人も皆が暗号通貨で買い物をする時代が到来する,ということだが──じっさいにそんなことが起こり得るのだろうか? 私は暗号通貨に関心を持って,使ってみたことがある。秘密鍵の管理には頭を悩ませなければならず,相場は激しく揺れ動き,そしてたいてい購入やスワップ(ほかの暗号通貨との交換)は数万円単位でなければできない。これでは普及しないのも当然だ,と思ったものである。