小説 言語省

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小説 言語省

著作権者・著者・発行者 池田笠井闘志
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この作品は小説です。実在の人物や団体とは関係ありません。本作品は、あなたまたはあなたの属する組織にとって、不穏当または不快である可能性があります。ブログ記事などと比べて非常に文字数が多く、また、あつかっている内容も創作上のものであるという特性上、多様性や社会情勢への配慮がゆきとどかない場合があることをご了承ください。きわめて不穏当または不快に感じられた場合は、著者の公開している連絡先にご指摘ください。

作中では不登校に触れています。執筆時点の社会における価値観を反映していますが、実際のところ現代のわが国の教育は重大な瑕疵をいくつもかかえており、適応できない人を苦しめている現状があります。したがって不登校は異常なことではありません。不登校の方を異常視したり、差別したりする意図はありません。

主人公がCoVID−19に罹患する場面がありますが、これは医学の専門家に意見を求めておらず、医学的に不正確である可能性があります。この作品をCoVID−19に関する判断に使用しないでください。

本文

私は一年前、十二年間勤めた言語省を退いた。

言語省の職員通用口を開けると、そこには「言語は文明の礎である」と記された金属板が見える。
言語は文明の礎である――ならば言語省は、文明をどうしようとしているのだろうか。

私は幼い頃から、言語が好きだった。中学校時代は英語のテストで九十点、国語に至っては九十五点を下回ったことがなかった。高校の入学式では、入試における英語の点数が最上位だったことを表彰された。
言語系の教科が高得点だったことで得意になっていたのもあるが、私はそのころから言語が好きでたまらなかった。とうぜん将来は、言語を扱う職に就きたいと考えていた。

高校二年生のとき、学校から紹介されたプログラムに申し込んだ。それが言語省のインターンシップであった。
それまで私は、言語省というものを知らなかった。言語省が創設されたのはその前年の二千二十三年で、インターンシップに参加したときは、つくられてから半年しか経っていなかった。

言語省は当時、日本語の正書法、すなわち正しい書き方を正式に決めるというプロジェクトに取り組んでいた。これにより、それまで慣習などによって決められていた書き方の一部が改められることになった。

読点がいい例えだろう。二千二十八年の四月以前に於いては、公的な場面で横書きを用いるとき、読点に「、」ではなく「,」(カンマ)を使用するべきとされていた。それは千九百五十二年に発せられた「公用文作成の要領」に基づくものであり、令和となったいまでは時代の情勢にそぐわなかった。そこで言語省は「日本語正書法令和十年度版」で、横書きでも「、」を使用するように定めたのだ。

のちに言語省は、国語および英和・和英の辞典をつくることになる。官製の辞典である。
既存の辞書をつくっている出版社などが反発することは予想できたが、そういったことを聞いた覚えがなかった。そこで私は、インターネットを使って調べてみることにした。
それでわかったことなのだが、どうやら言語省は、出版社に補償金を出したり、辞書の担当者に公務員資格を与えて雇ったりしていたらしいのだ。お金に困るわけでもなければ、辞書編集の仕事が奪われるわけでもないので、反発する理由など見あたらないではないか。当然、反発の話も聞かないわけである。


さて、私は言語省に勤めたいと強く思い、言語省への就職実績がある大学に進んだ。二時間だった勉強時間を十二時間にまで増やして、大学の先にある言語省を目指し努力を続けた。大学の合格通知が届くと、書店に行って公務員試験や言語省への就職に関わる本を買いあさった。

大学時代は楽しかった。言語学関係の講義を取り、昔の言語について研究するゼミに入った。
車の免許を取り、友人とドライブにも行った。出版社のインターンシップにも参加し、校正や翻訳のアルバイトもした。
そのかたわら、空いた時間には言語省に就職するための勉強を欠かさなかった。公務員試験に合格し、すべては順調に思えた。

友人たちも皆、言語省に入ろうとする私を応援してくれた。中学時代からの親友である伊藤は、受験の年に「言語省合格!」と書いた年賀状を送ってくれた。

しかし結果は思うようにいかなかった。私は言語省の試験に不合格になったのだ。そのまま大学を卒業すると、総合情報誌の出版社に、編集補佐として就職した。


その出版社ではずいぶんとおもしろい経験をさせてもらったものだ。秘密保持契約というものがあるからくわしいことは書けないが、ほかの会社ではとうていできないような仕事をしたこともある。

その雑誌は社会の深いところを扱っていたので、記事ひとつ書くにも命がけだった。記事のネタを検証しようにも、裏社会の方々に直接取材しなければならないこともざらだった。
これはうわさで聞いた話だが、私の先輩は暴力団の事務所から書類を盗もうとし、そのまま行方不明になったという。

私も幾度かは恐ろしい目にあったことがある。当時は襲撃を避けるため、編集部は車で移動していた。私はノートパソコンを開き、次月号の記事を誌面に配置していた。
どうも、このレイアウトではしっくりこないのだ。しばらく画面を見つめながら頭を悩ませていたところ、よさそうなアイデアが浮かんだ。
しかし、突如響いた銃声が私の名案をかき消した。車は猛スピードで発進し、荒い運転でその場から遠ざかった。速度計の針は時速百キロを越えていた。たしか特別な標識がない限り、自動車の速度制限は時速五十キロだったはずだから、間違いなく道路交通法に違反することになる。
これで警察に捕まったら出版社の信用が落ちるんだろうな、などと考えていたら、とつぜん急ブレーキがかかった。フロントガラスのすぐ向こうには、ホテルの入口があった。コンマ一秒でも遅ければ通行人の命を奪っていたかもしれないし、そうでなくてもこの豪華なホテルから多額の賠償を求められることは確実だった。

そのほかには、給料日に給料が振り込まれなかったこともある。いつもなら十三時前には振り込まれるはずなのだが、この日に限っては十四時を回ってもまだ振り込まれなかった。
そのとき私は休みをもらっていて、会社――といっても当時は車なのだが――にはいなかった。
それで電話をかけたのだが、話し中でつながらないのだ。私はしばらく待ってみることにして、十六時頃にインターネット・バンキングを覗いた。それでも入金がないので再び電話をかけたら、こんどは無事につながった。
電話の相手は、経理の担当者だった。その人は電話に出るなり、こう言い放った。
「ああ、久下沼さん? お給料の件ですよね。あの、申し上げにくいんですけれど、トラブルがあって、会社の口座の残高がゼロになったんです。すみませんが、今は払えません。その対処で忙しいので、もう切ります」
私がなにか言おうとする間に、電話は切れてしまった。口座の残高がゼロになった?
総合情報誌の出版社が、計画もなしに金を浪費したとでもいうのか?

給料は次回出勤したときに、現金で支払われた。経理担当者によれば、見覚えのない国際送金によって残高が全て引き出されていたというのだ。しかも、送金先は無名な暗号通過取引所だという。たとえ犯人を捕まえられたとしても、金が戻ってくる保証はない。
この逆境にもかかわらず、次月号は予定通り発刊された。

さて、私が言語省に移るきっかけとなったのは、銀座駅に貼り出されていた募集広告であった。
記者となった私は、闇カジノや麻薬取引などの記事を書くため、東京を訪れていた。東京というのは図太い街だ、といつも思う。新型コロナウイルスが襲ってきたときも、ついに首都の座を明け渡すことはなかった。暴力団や薬物の売人がいかに暗躍しようとも、表の街はそれに屈することなく、けがれを拒み続けている。

恐ろしいところで恐ろしいものを見たあと、陽が注ぐ都会の表に戻ってくると、街じゅうにあまねく強さと希望というものが心に染み込んでくる。洒落たカフェに巨大な書店、未来への希望を抱かせる教育機関――。命がけの取材を終えた私に、滅亡を知らないこの街は、強い自信を与えてくれた。そして言語省の募集広告を見たとき、私ならできる、今ならできる、と思ったのだった。

会社に戻り、上司にそのことを相談した。叱られるのではないかと思ったが、受けてみたらいい、と快く承諾してくれた。こうして私は、再び言語省を目指したのである。

東京という街については、つけ加えなければならないことがある。
富と希望と自信にあふれた大きくて強いこの街は、苦しみのうめき声をしばしば聞き逃してしまうのだ。ホームレスもいれば、いじめや借金に苦しめられる人もいる。街を埋め尽くす、天にも届きそうなほど高いビルは、彼らを見下すことさえしない。ひたすら無関心を徹底している。泣こうがわめこうが、地団太を踏もうが、巨大な都市は目配せすらしない。
この街の誰かが今日の寝床や明日の食べ物に困ろうとも、街じゅうから聞こえる無言の励ましが皮肉にしか聞こえなくても、死後の世界にしか希望を見いだせなくても――それが何だというのだ?

そしてその冷酷さは、人に対するものだけではない。他の都市に対しても、同じくらい冷酷なのである。
地方の街や集落が断末魔の叫びをあげても、東京という街はそれをすまし顔で聞くことができるのだ。


私は大学卒業程度の公務員試験を受けたあと三年以上経過していたため、もういちど受け直さなければならなかった。すぐに対策のための勉強を始めたおかげなのか、公務員試験には一発で合格した。しかしここからが難しい局面である。

言語省の登用試験では、筆記と面接がそれぞれ二回行われ、書類選考も含めれば五段階でふるい分けられる。大学時代の私は、二回の筆記試験を通り抜けたさきに待っていた一回目の面接で落とされ、二回目の面接に進むことができなかったのである。

だから今回も、最初の面接のときには緊張した。おおむね、このようなことを聞かれるのである。
「あなたは、なぜ言語省を志望されたのですか?」という定番の質問からはじまり、「言語への情熱を表すエピソードを教えてください」、「あなたが一から言語をつくれるとしたら、なにを重視してつくりますか?」などの答えに困るような質問が投げかけられる。
今回、私は新卒ではない。出版社での仕事についてもあれこれ聞かれるのだ。

「あなたが出版社での勤務経験をつうじて学んだことのなかで、いちばん大事なことはなんですか?」
そう面接官が尋ねたとき、私は自信をもって、こう答えたのである。
「情報を扱う仕事は、重い責任が伴います。けっして生半可な気持ちではいけない、命がけで、いや、魂の尊厳をもかけて事にあたらなければならない、ということです」
面接官は手元の帳面に何かを書き記すと、笑みをうかべて小さくうなづいた。
これで合格したぞ、と私は思った。しかし皮肉なことに、言語省の体制を保つためであれば、この答えをもって私を不合格とすべきだったのだ。

二ヶ月後、私の家に合格通知書が届いた。一ヶ月後に二次面接が予定されていて、日付と場所が記されてあった。

面接の会場は沖縄ににあった。東京ではなく地方都市にある会場を指定してくるところがお役所らしくないな、と思ったものだ。
会場に着いて指定された部屋の扉を開けると、温厚そうな人がほほえみを浮かべて立っていた。
「久下沼陽向さんですね。わたくし、面接を担当させていただく、言語省の田島と申します」
「あ、はい。久下沼陽向です・・・じゃなかった、久下沼陽向と申します」
「そんなに緊張なさらず。どうぞおかけください。コーヒーでも飲みながら、ゆっくりお話しましょう」
田島さんは私を、部屋の中央にある大きな応接机に案内した。私がソファーに腰掛けると、田島さんはコーヒーを一口飲み、質問をはじめた。
「まずは、あなたの生い立ちについて話していただけますか?」
生い立ち、か。私は目を軽く閉じて、脳内から過去の記憶を引っ張り出そうとした。しかし逆に、私の意識が過去へと吸い込まれていったようだった。出版社時代から、大学、高校、中学校のときの記憶が、まるで特急列車の窓から見える景色のように通り過ぎていった。幼児のころにたどりついたとき、ようやく私は口を開いた。


私は二千八年に、長野県松本市で生まれた。
幼稚園のころは、とてもやんちゃな子だった。私の通っていた幼稚園には、お泊まり会というものがあった。場所は幼稚園なのか、それとも外部の宿舎なのかは忘れたが、一泊して催し物に参加するのだ。小中学校でいうところの修学旅行のようなものかもしれない。
幼稚園では、仲のよかった子がいた。その子の名は忘れてしまったが、よく一緒に遊んでいたものだ。
さて、お泊まり会の翌朝、私はその子より早く起きた。そのとき私は、ちょっとしたいたずらで驚かせてやろうと考えた。
その子は、鬼をとても怖がっていた。教諭が、「鬼さんが来るよ」などと脅そうものなら、震え上がり大声で泣き出して、そのまま一時間は泣きやまなかった。
そこで私はその子の耳元に口を近づけ、ひそひそ声でこう言った。
「鬼だぞー。おまえは悪い子だから、食べてやるぞ」
次の瞬間、逆に私が驚かされることになった。その子が耳をつんざくほどの大声で泣き出したのだ。その子は駆けつけた教諭に、鬼はもう帰ったかと泣きながら尋ねた。
「大丈夫。鬼さんはもう帰ったよ」
教諭はそうなだめたが、その子は泣きやまなかった。私が驚かそうと鬼のまねをしたことを、他の子が告げ口でもしたのだろうか。その子は、陽向のいじわる、もう陽向とはぜったいに遊ばない、と叫んだ。そして、それきり二度と口をきいてくれなかった。

そんな私も、小学校に入ったとたんにおとなしくなったと記憶している。当時はスマートフォンが普及しはじめたころで、両親のうちどちらかはすでに使い始めていた。
なんであれ新しいものがつくられると、それに伴って問題が生じるものである。むろんスマートフォンも例外ではなかった。当時はメッセージアプリを使ったトラブルが増加していたのだ。小学校では「情報モラル講演会」というものがあり、インターネットやスマートフォンがいかに恐ろしいものか、ということを長々と語られたものである。
そのとき私は、どうしても腑に落ちないものを感じた。情報技術の発展というのは、よほどのことがないかぎり元に戻ることはないだろう。一度便利さを知ってしまった人は、それを手放すことなどできない。
しかし当時の教育者の物言いは、地道な努力を続ければいつかは「スマホ禍」は収束するだろう、と思っているようにしかみえなかったのである。なんとかスマートフォンのまん延をくい止めて、できることならスマートフォンのなかった時代に戻してしまおう――そんな考えを、私は言葉の端々から垣間見たのだ。


文明を震え上がらせ、人類を恐怖のどん底に引きずり込んだあの病――CoVID−19が人類に襲いかかったのは、私が小学校の六学年に進もうとしていたときだった。
学校が休みになり、テレビではコロナ、コロナと連呼された。そのうちコロナ疲れとかコロナうつとか、コロナ太りなどという言葉も聞かれるようになったが、そのときの私は、おおむね精神を健康な状態に保っていたと思う。学校を休めることがうれしかっただけでなく、不謹慎かもしれないが、私はこの新しいはやり病に、未知の冒険に対するようなわくわくした気持ちを抱いていたのだ。
やがて学校が再開されても、このパンデミックはいっこうにおさまる気配はなかった。修学旅行や遠足などの行事を楽しみにしていたのだが、慣れないマスクをつけた息苦しさのなかで聞いたのは「中止」という言葉だった。それが半年も続けば、誰であれ恐怖と不自由に心がむしばまれるものである。私はこの五年間をとおして、不登校になった児童を見たことがなかった。かぜでも引く子がいない限り、いつも教室は満員だった。しかしその年の十月ころには、数名の同級生が教室から姿を消していた。
どこにも行けない、誰にも会えない。薄いガラス窓の向こうでは、死神が獲物を求めて歩き回っている――。言い過ぎかもしれないが、当時の人々はおおむねこのような感覚をいだいていた。
そのような人々にとって、疫病禍のなかでも平気で遠出したりマスクをつけずに出歩いたりする人は、死神の腕に飛び込んでいく愚か者どころではなかった。死神におのれを売り渡し、死神の一部となって「我々」を墓場に引きずり込む反逆者にしか見えなかったのである。

死を突きつけられた時代であっても、若者は出歩いたり、どんちゃん騒ぎをしたりしていたそうだ。「そうだ」というのは、私は実際にその現場を見たことがなかったからである。当時の私はわずか十二歳を回ったばかりで、若者といえるほどの年齢に達していなかった。私のいとこには高校生も大学生もいたが、みな派手な行動は控えていたし、年上のいとこにいたっては営業を自粛しない飲食店に嫌がらせをして逮捕されてしまった。
当時高校生だったいとこは、通信制に行けばよかったといっていた。合格すればひと息つける、友だちと遊べる。そう思って必死に勉強したのだが、なんたるざまだ。高校受験が「終息」したら、遊ぶことも許されず、大学受験に向けてひたすら勉強、勉強である。しかも今度はウイルスという死神が、すぐそばで勉強の進み具合を見つめているのだ。
青春の三年間は見事に失われてしまった。その人はそういって、年下のいとこである私に不満を漏らしていた。卒業文集に載せるため「失われた青春を求めて」という題で作文を書いたら、三人が同じ題で投稿しようとしていたという笑えない小話まである。

さて、読者のみなさまはこう思われるかもしれない。すなわち、なんで言語省について書かれたはずの本で、おまえのろくでもない身の上話を読まなくちゃならないのか、よりによってあの忌まわしい時代の記憶を掘り起こそうとするのか、と。
しかしこれは、いま言語省が進めている凶行の事実を裏付けるのに欠かせないのだ。どうかご理解いただきたい。

中学生になって数ヶ月と経たないうちに、私はCoVID−19にかかった。なんとなく体調が悪くなったので学校を休み、念のためにと思って検査を受けたのだ。
検査の翌日は奇妙なほど息苦しく、強いだるさを感じた。もしかしてCoVID−19かもしれない、もしそうだったらどうしよう。他人に感染させたかもしれない、自分はもう死ぬかもしれない、そうでなくても社会から抹殺されることは確実だ――恐怖にかられたとき、家の電話が鳴った。
おそらく検査の結果が出たのだろう。それにしても妙に早い。私は試験の結果でも聞くかのような緊張を感じながら、受話器を取った。
結果は陽性だった。記憶を辿ると、思い当たることがあった。四日ほど前に友人とカラオケに行っていたのだ――しかも、マスクを外して。
病院からの電話を切った後、熱い怒りがゆっくりと、そして確実に沸き上がってきた。あの人が私に感染させた。マスクを外そうといったのはそっちじゃないか。私は携帯電話を強くにぎり、電話帳からその友人の名を探した。
プルルルル、という発信音が私を落ち着かせたが、その効果は長続きしなかった。人殺し、人類の敵め。電話に出たらなんと罵倒してやろうか。
しかし携帯電話から聞こえてきたのは、弱った病人の声だった。そのとき私は、これは病気なのだということを思い出した。CoVID−19は感染症なのだ。これが私の怒りを、こんどは永続的に鎮めた。CoVID−19は天然痘や狂犬病と同じく、ウイルス性の感染症である。私は、狂った犬がまさに飛びかからんとしているときとはまったく違う恐怖を、CoVID−19に対して抱いていたことに気づいたのだった。
電話を終えると、強いだるさが一気に私を襲い、携帯電話を机に置くことさえできなかった。なにを話したのかは忘れてしまったが、感情にまかせて罵詈雑言を吐かなかったことだけは確実である。
中学校の入学祝いに買ってもらったこの携帯電話は、このとき大きな活躍をみせた。このすばらしい携帯電話を使って、学級担任の先生や保健所の担当者と何度も言葉を交わしたのだ。担任の杉山先生は、電話越しに励ましの言葉をかけてくれた。保健所の担当者は落ち着いた声で、療養について詳しく、そしてわかりやすく説明してくれた。

私は軽症であったため、自宅療養となった。一方その友人はホテルで療養することになり、客室のベッドから何度も電話をかけてきたことを覚えている。しかしそれ以来、その友人を学校で見かけることはなかった。

杉山先生は、私がCoVID−19にかかったことを学級のみんなには言わない、と約束してくれた。そのおかげで、学校に戻るときの障壁はかなり低くなった。
保健所からの許可がおりて学校に戻ったとき、同級生は私のことを心配してくれた。どんな病気なの、と聞かれたとき、私はこう答えた。
「おそろしい病気だよ」
もしかしてコロナなのか、と同級生が言って、私は血の気が引くのを感じた。しかし他の同級生が、ミュンヒハウゼン症候群じゃないかと言ってくれたことで、ずいぶん安心したものだ。しかし、あとで調べてみるとミュンヒハウゼン症候群というのは、心配や同情を求めて、自らの体を傷つけ病ませるものだという。さらに詳しく調べると、精神疾患として認められていることがわかった。
中学生という年代は、得てして深く考えずに行動しがちである。その軽率さゆえに罪や失敗を犯すことも少なくはないだろう。その同級生は、メッセージアプリのグループ機能を使って、学級の全員に「久下沼はミュンヒハウゼン症候群らしいよww」と送ってしまったのだ。

ここで、言語省ご自慢の官製国語辞典にご登場いただこう。

【w】
インターネットなどの文字コミュニケーション場面に於いて、笑っていることを表すため、おもに文末に付け加えるもの。インターネット・スラングの一。強調するために複数並べて使う場合もある。

すなわち、ミュンヒハウゼン症候群を冗談のねたにしていた、ということである。学級内だから大丈夫だろう、と思っていたに違いない。しかしことはそううまく運ばれなかった。塩沢という同級生が、代理ミュンヒハウゼン症候群の被害者だったのである。「代理」がつかないミュンヒハウゼン症候群であっても、冗談のねたにされることは、その人にとって古い傷を再び広げられるようなものだったに違いない。

「『ww』ってどういうこと!?」塩沢はグループの会話にメッセージを送った。それからは激しい言葉の応酬が続き、学級のだれかがそれを杉山先生に報告した。
先生はこれを重くみたのか、翌日か翌々日に全校集会を開き、インターネット上での失言やトラブルに関して生徒らに注意をうながした。そして生徒指導部の先生までもが壇上に上がって、これからはメッセージアプリのグループ機能を使ってはならない、と告げたのだ。


私が中学校の三年生に上がるころには、CoVID−19のパンデミックも終わりかけていたように思う。少なくとも、このまま感染者が減って終わるだろう、という認識が一般的なものとなっていた。
私は、県内でも有名な進学校に進もうと考え、受験勉強をはじめた。五月の模試ではB判定で、安全圏まで上がるにはさらなる努力を要した。

二年前に病床を談話室に変えたあの携帯電話を、こんどは鍵付きのケースに閉じこめなければならなかった。手元に携帯電話があると、どうしても動画サイトを見てしまったり、ネットサーフィンをはじめてしまうのだ。

一日あたり何時間勉強しただろうか。少なくとも十時間は確実に越えていた。そのおかげで八月の模試ではA判定を取ったが、じつはその上にS判定というものが存在するのである。つまり、ほぼ合格できるだろうと安心するには、まだ点数が足りないということだ。

しかし九月に入ると成績が伸び悩み、それどころか、ゆるやかにではあるが下がっていった。志望校に合格するには、百点かける五教科で五百点満点のうち、四百八十点以上を取らなければならないといわれていた。すなわち、全教科を通して合計二十点を越えて間違えてはいけない、というわけである。
夏休み前の七月に行われた期末考査では四百六十点台、八月の模試では四百七十八点を記録した。しかしそれ以上点数が伸びることはなかった。

九月の第一回実力テストでは、五点下がって四百七十三点、第二回では六点下がって四百六十七点、第三回にいたっては急降下して四百四十点と、三学年に入ってから最も低い点数を記録することになった。全教科のテストが返された日の夜、四百四十点という点数をはじき出した私は、いらだちのあまり携帯電話をケースから取り出して、玄関の床に思い切りたたきつけてしまった。

それでも点数は下がり続けた。何時間勉強しても、怒りと恐怖のせいでなにも頭に入らなかった。
もう、志望校合格は無理だ。そう思ったのは、第四回実力テストの点数を見たときだった。
三百九十九点。ついに四百点を下回ったのだ。高い学歴、きらきらした青春、それらのすべてが手に届かない夢の世界に飛び去っていった。

第二志望校を決めていなかったから、進学先を探すところからはじめなくてはならない。私は泣きながら「高校案内」のページをめくった。
ときは十一月。たとえ前期試験を受けるにしても、願書を出す一月まではまだ時間があった。それが、第一志望に向かって立ち上がるか、あきらめて他の高校に行くかを迷わせた。
模試では、当初の志望校はおろか、一覧表から無作為に選んだ三校もすべてE判定だった。点数は三百七十七点。十二月の第五回実力テストで三百六十五点を取ったあと、進学先を決めないまま冬休みに入ってしまった。


冬休みに入ってすぐに、杉山先生から自宅に電話がかかってきた。
保護者はいるかと尋ねられ、両親のいずれも仕事に行っています、と答えた。用件はこうだった――進路のことについて、保護者を交えて話がしたい。
「携帯にかけたけどつながらなかったから、心配したんだよ」
杉山先生のその言葉で、私は携帯電話を壊してしまったことを思い出した。

両親が帰ってくると、私は杉山先生から電話があったことを伝えた。その翌日に、臨時の三者面談を開くことになった。
実力テストの結果をふまえて、私は現在の学力でも入学できる私立高校を受験することにした。

結果は合格だった。これで一息つける。しかし、ほんとうに大丈夫だろうか?このままの調子で学力が下がり続けたら、入学するころには勉強についていけなくなるかもしれない。有名大学など夢のまた夢。そしてしまいには、なにもかもわからなくなってしまうのではないだろうか――そんな恐怖が私を襲った。

自宅のコンピュータでネットサーフィンをするうち、CoVID−19の後遺症に関する記事を見つけた。そこには、さまざまな後遺症とならんで、「脳の障害」があげられていた。

前に述べたように、私はCoVID−19にかかったことがある。もしかして、その後遺症だろうか?そう不安にかられてさまざまなウェブサイトを見て回るうち、こんどはCoVID−19ワクチンの長期的な悪影響に関する記事にたどり着いた。そこには、「脳の異常、その他の未知の副反応が起きる可能性があります」と書いてあったのだ。
私は、中学校一年の終わりころにCoVID−19ワクチンを接種していた。もしかしたら、ワクチンの副反応とやらかもしれない。
それでも私は、ネットサーフィンを続けていた。そこでたどり着いたのは、陰謀論系のウェブサイトだった。
当時は第五世代移動通信システム、すなわち5Gが商用化されてから数年しか経っていなかった。そこには、「5Gの電磁波で脳に深刻な悪影響があらわれる可能性があります」と書いてあったのだ。
私が持っていた携帯電話も、たしか5Gに対応していた気がする。これは5Gの電磁波による影響なのか?
ウイルス、ワクチン、電磁波、そのいずれが原因であっても、私の身に起きていることは不可逆なものに思えた。学年上位の優等生だった私が、脳に不可逆かつ進行性の病をかかえるとは!
はげしいいらだちと絶望感をおぼえたが、それらをどこにぶつければよいかわからなかった。私はコンピュータの横にあるプリンターを持ち上げると、窓から思い切り投げ飛ばした。それから一秒も経たないうちに、ガラスの割れる音が聞こえた。

当時私が住んでいたのは、集合住宅の二階だった。窓から下を見ると、私が投げたプリンターは、駐車場に停まっている自動車のフロントガラスにめり込んでいた。
あとで知ったのだが、自動車のフロントガラスには、特別に割れにくい構造が採られている。だからプリンターが二階から落ちてきても、ガラスは散乱することはなかったのである。
さて、私は一瞬凍りついたように硬直し、それから冷静さを取り戻した。これは多額の賠償金を求められることになるだろう。車のガラスを修理するのにいくらかかるかは知らなかったが、とにかく高くつきそうだということだけはわかった。しかもその車をよく見て、私の頬を冷や汗が流れた。
その車は真っ黒に塗られていて光沢があり、広い駐車場のなかで高級さを誇示していた。まさしく、どこから見ても高級車にしか見えなかったのである。
高級車のガラスを割ってしまった!高級車と聞いて私が想起したのは、暴力団だった。家に怖い人がたくさんやってきて、脅されたり、どこかへ連れて行かれたりするのではないだろうか。
そのとき、信じられないことに運転席の扉が開き、車から人が降りたのである。私はとっさに、窓から見られないよう身をかがめた。これでひとまず見つからないだろう。でも、プリンターがぶつかったときに車内にいたとすれば、それがどこから飛んできたのか見ているはずである。いや、自分に向かってなにかがが飛んでくるとすれば、反射的に目をつむるのではないか。
「もしもし、聞こえますか?」
窓の外から声が聞こえた。
「はい。割られたんです。保険? 入っていますけど、なにか? ええ。 そうです。心当たりはありませんね。ええ。怪我はしていません」
窓から目を出して下を見ると、さきの人は携帯電話で話しているようだった。どうやら、プリンターを投げたのが私だと言うことに気づかなかったようだった。

このことが親に知られたのは、意外に早かった。高級車の持ち主である岩崎氏は、事件の証拠として、プリンターを保険会社の担当者と警察官に見せなければならなかった。
私の親が仕事を終えて帰ってきたとき、その様子を見たのである。これはうちのプリンターだ。どうしてこんなことになった?
自分の家のプリンターが、飛んできて岩崎氏の車のフロントガラスを割った。そのとき家には、十五歳の子がいたはずだ――自分の子がプリンターを投げたか、あるいはもっとおそろしいことが起きたか、そのいずれかであることは間違いなかった。私はプリンターを投げたことを、両親に打ち明けなければならなかった。

翌日、親子二人で岩崎氏に謝りに行ったときのことだ。私はてっきり、岩崎氏は怖い人だと思っていた。しかし実際は違った。岩崎氏は泣いて謝る私に、落ち着いた声でこう言った。
「いえいえ、問題ないですよ。私だって子どもの頃は、とんでもないまねをしたものですから。お金のことは心配しなくていいです。保険が下りましたので。それに、あのガラスはちょうど取り替えようと思っていたところだったんです――もっと割れにくい、特別なガラスに」

こうして始まった私の高校生活は、けっして楽しいものとはいえなかった。高級車のフロントガラスを割ってしまったいま、携帯電話を買ってくれとは言いにくかったので、携帯電話を持たないまま高校生活に入らなければならなかった。
携帯電話がないと、友人と連絡先を交換することもできない。会って話せばいいと思われるかもしれないが、同級生が聞き耳を立てている以上、教室や通学路では込み入った話はしづらいのだ。

中学校最後のテストでは、入学以来最も低い三百五十点を記録した。それを高校進学後も引きずっていたのはいうまでもない。今後も学力は下がり続けるだろうという恐怖が、常につきまとっていた。両親はこれをコンピュータの使いすぎだと考え、プリンターの件以降、私がコンピュータを使うことを制限していた。
高校ではすでにこの時代から、書類作りや表計算、プログラミングなどの宿題が出されていた。課題の指示を印刷した小さな紙が、記録装置とともにビニール製の袋に入れられて渡されるのだ。私はそれを両親に見せて、宿題のためにコンピュータを使わせてほしいと頼んだ。すると親は、十八時過ぎだというのに先生に電話をかけ、ほんとうにそんな宿題を出したのかを確かめようとした。

それから私は、コンピュータを使った宿題に取り組むときは、学校のコンピュータを使うことにした。
放課後のコンピュータ室には、さまざまな困難を抱えた生徒が残されていた。管理上の都合で、放課後に生徒が居残れるのはコンピュータ室だけだったのだ。
学校側は希望する生徒に対し、夕食を提供していた。夕食といっても、精密機器が集まる場所でふるまわれるため、かすや汁が出にくいものに限られていた。
貧しくてコンピュータを手に入れられない生徒は、コンピュータ室で宿題に取り組み、そして夕食も食べていたのである。虐待や暴力から逃れるためにコンピュータ室を使う生徒もいたし、薄いカーテンで区切られた空間では先生が進路や人間関係の相談を受けていた。

宿題のためにコンピュータ室に通ううちに、私は一学年上の本田先輩と親しく話すようになった。本田先輩はコンピュータを持っていたが、オペレーティングシステムの種類が違うので、学校で指定されたソフトが使えないのだという。
宿題を終えたあとは、二人でよく喫茶店に行ったものだ。コーヒーを飲みながら、日常のたわいもないことを話していたのである。

またたく間に一年間が過ぎ、私は二年生に、そして本田先輩は三年生になった。
春の暖かな陽気が街をおおっていた。私はいつものように、本田先輩と喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
そのとき本田先輩は、一枚の紙を取り出して、私に見せた。それは、言語省のインターンシップ生を募るちらしであった。

インターンシップ生募集!

業務内容:翻訳・校正
時給千円
別途交通費支給

令和八年六月十四日(日)から令和八年八月八日(土)まで
応募資格:長野県に住所があるか、長野県内の高等学校に通学している、令和八年四月時点で高校三年生の方。

公文書や掲示物の翻訳(日本語←→英語:その他の言語の技能をお持ちの方は、申し出てください)や、正書法に基づく校正などをしていただきます。言語の面白さが分かるほか、日本語の正書法や翻訳の技能を実践的に身につけることができます。

言語に興味のある高校生のみなさん、ぜひご応募ください!

言語省

私はこのインターンシップに興味を持った。ちらしが現代的かつ美しくデザインされていただけでなく、それ以上に、翻訳や校正という言葉が、私の心を躍らせたのだ。

思えば、おもしろいものを見たのは何年ぶりになるだろうか。中学校の三年生に進んでからというもの、受験勉強のせいでものごとに興味を持つ余裕などなかった。それに加えて、学力が低下したためやむなく選んだこの高校では、授業をまったくおもしろいと思えなかったのだ。

翌日は月曜日だったが、翌朝の登校まで待っていることができなかった。私は担任の小黒先生に電話をかけた。そのとき私は携帯電話を持っていたかは、よく覚えていない。新しい携帯電話を買ってもらったのは高校二年生のときだが、私の記憶では夏ごろであり、春ではなかったと思う。でも、喫茶店から電話をかけたことは確かだった。もしかしたら、本田先輩の携帯電話を借りたのかもしれない。
私が言語省のインターンシップに参加したいと言うと、小黒先生は、翌朝の七時三十分に国英準備室に来るように言った。国英準備室とは、国語科と英語科の先生が授業の準備をしたり、生徒に成績をつけたりする部屋である。

翌朝は五時に目が覚めた。いつもより一時間も早かったと思う。朝食を食べて身支度を整えても、まだ六時をまわったばかりだった。学校まではバスで十五分しかかからない。私は早めに家を出て、六時四十五分には学校に着いていた。
私が校門の前で待っていると、国語科の竹前先生が歩いてきた。私が軽く会釈すると、竹前先生は、「言語省のインターンに行きたいんだね」と言った。
国英準備室の前で十分ほど待たされたあと、竹前先生がドアを開け、いすに座るよううながした。
竹前先生は募集のちらしを持ってきて、印刷された文を指さした。

応募資格:長野県に住所があるか、長野県内の高等学校に通学している、令和八年四月時点で高校三年生の方

血の気が引いた。私はもう一度、その文を読み返した。
令和八年四月時点で高校三年生の方

これって来年もやるんですよね、と言いかけたとき、竹前先生はこう言った。
「まだ二年生だから、本来は参加できないことになっているんだけれど、もしかしたら参加できる可能性もあるから、言語省に問い合わせてみる」
「本当にいいんですか?
ありがとうございます」
特別に参加させてもらえるよう、取りはからってくれるというのである。指定された時刻より四十五分も早く来たことが、志の強さのあらわれとみなされたのかもしれない。

その日、帰りのホームルームの最中に、校内放送で私の名が呼ばれた。放送は国英準備室に来るように指示していた。インターンシップに参加できるのだ!私は急いで荷物をまとめ、うきうきした気持ちで国英準備室に駆けつけた。
国英準備室に入ると、竹前先生がいくつかの紙を持って立っていた。竹前先生はいすに腰掛けるよう指示し、私の目の前に書類を置いた。

言語省 インターンシップ・プログラム参加申込書

言語大臣 様

私は、誓約事項および個人情報保護指針に同意し、言語省第一回高校生インターンシップ・プログラムへの参加を申し込みます。

[氏名]
[学校名]
[生年月日]
[住所]

私は、信じられないほどの奇跡を目の当たりにしたような気持ちで、申込書に記入した。私は字が上手なことが自慢だったが、このときは緊張のあまり手がふるえ、字がゆがんでしまった。
記入を終えると、つぎに「誓約事項」というものが印刷されていた。私はそれに、さらりと目を通した。

・インターンシップ生といえども国家公務員の範ちゅうに含まれることを自覚して業務にあたります。
・本プログラムで扱う公文書は本物であり、社会に重大な影響をおよぼすことを理解しています。
・公文書の内容をはじめとした、本プログラムで知り得た情報を外部(他のインターンシップ生を含む)にもらしたり、SNSやブログなどに投稿したりしません。
・本プログラムで扱う文書を、個人的な動機で改ざん、偽造、破棄などはしません。
・誓約事項に違反したり、粗暴行為やハラスメント等によって言語省の業務に支障をきたしたり、その他言語省職員または当局の指示に従わなかった場合は、当局によるいかなる制裁をも甘んじて受け入れます。

本当のことをいうと、私はこの「誓約事項」を読んだとき、いくつかの点に疑いのまなざしを向けざるを得なかった。
まず、たとえ優秀な学生だといえども、十七か十八歳の高校生に公文書など扱わせてもよいのだろうか、ということである。
つぎに、「本プログラムで扱う文書を、個人的な動機で改ざん、偽造、破棄などはしません」というところだ。「個人的でない動機」すなわち業務上の指示により、公文書を改ざんしたり偽造したりするということなのだろうか。
そして極めつけは、「当局によるいかなる制裁をも甘んじて受け入れます」の一文である。
「いかなる制裁も」ということだから、どのような制裁かはわからない。一生刑務所から出られないかもしれないし、公文書に虚偽の前科が書き連ねられるかもしれないのだ。
ここで、再び官製国語辞典にご登場いただきたい。

あまんじる【甘んじる】
仕方のないものとして受け入れること。

すなわち、たとえどれだけ理不尽な制裁を加えられても反抗しません、という意味になるのだ。当時の私は「甘んじる」という言葉を知らず、電子辞書で調べて震え上がったものだ――いかなる制裁も受け入れろ、というのだから。


家に帰ると、そこはかとない不安が私を襲った。言語省のインターンシッップで、うまくやっていけるだろうか。なにか失敗して「いかなる制裁も甘んじて受け入れ」ることになってしまわないだろうか。
でも、もう申し込んでしまったのだから、いまさら取り消すことなどできまい。なんといったって、三年生が対象のところを、二年生の自分が参加できるよう取りはからってくれたのだ。

そんなことを考えているうちに、時は過ぎていった。参加決定の知らせが届き、親が学校に呼ばれて承諾書に署名した。そしてまたたく間に、参加の前日となった。

いつもなら二十三時には眠りに落ちてしまうのに、その夜に限っては日付が変わっても眠れなかった。言語省から送られてきた持ち物リストにしたがって必要な物を準備した。旅支度を終える頃には、窓から朝焼けが見えていた。
結局その夜は一睡もすることなく、私は松本駅に向かった。
駅前に「言語省」と書かれた看板を持った職員が立っていて、その横には小さなバンがあった。私はそれに乗り込み、他の参加者と挨拶を交わした。
松本駅から二十分ほど走ると、バンは雑居ビルに挟まれた小さな駐車場に停まった。そこから狭い路地を十分ほど歩いたところで、私たちを引率してきた職員が古いビルを指してこう言った。
「みなさん、こちらが言語省の長野支所です」
ここが長野支所――あの言語省の?
公文書を扱う施設は、目立たないほうがいいのだろうか。しかも、松本にあるのに長野支所と名付けられているのだ。
職員の指示に従ってビルの中に入ると、外見とは打って変わって真新しい壁と床が光沢をかがやかせていた。私たちは階段を上って会議室に向かい、仕事内容の説明を受けた。

私たちのインターンシップに於ける最初の仕事は、日本語の勉強だった。いや、日本語の「言語省が定めた正書法と文法」の勉強、といったほうが正しいかもしれない。

日本語は自然言語なので、むろん文法にあいまいなところがある。言語省はそのあいまいさを、少なくとも公的な書き言葉のうえからは取り除こうとしていた。
たとえば「青色の万年筆と時計」という場合、「『青色の万年筆』と『青色の時計』」なのか、「『青色の万年筆』と『(色を指定しない)時計』」なのかは、かつてはあいまいであった。
「言語省文法細則 第二版」はこれを、「『青色の万年筆』と『(色を指定しない)時計』」を意味すると定めた。なお、「『青色の万年筆』と『青色の時計』」を意味させたいときは、「青色の万年筆時計」ということになっている。

こういった正書法や文法細則の講義を受けて試験に合格すると、実習に進むことになる。
私はその試験をまっさきに通過した人の一人だった。そして実習に進んだのだが、その内容は文書の修正であった。
現在の言語省では人工知能によって、公文書を正書法および文法細則に適合するよう修正している。しかし当時は、おおまかな修正こそ電算処理で済ませられたものの、細かな文法上の修正は人間の仕事とされていた。

言語省で使われているワープロソフトはリブレオフィスやゲントクドキュメントではなく、「公文書ライター」という味気ない名前の独自開発したものである。この「公文書ライター」というものが、これまたたいへん使いにくいのだ。編集しようと思ってクリックすると、「文法上の誤りを検知できませんでした」と表示される。ここが間違っているから直したいだけなのに、「誤りを検知できませんでした」とはどういうことだ?
実のところ、このソフトでは編集するにはクリックではなく右クリックで、しかも押す長さは半秒から一秒半と決められている――これを間違えると違う操作になってしまう。
なんとか「公文書ライター」の使い方を覚え、見本の文書を修正できるようになったところで、こんどは本物の公文書を修正することになった。

公文書とひとくちにいっても、「公務員が職務上作成した文書」であるから、いろいろな種類がある。公務員の諸届けや始末書、行政機関に於ける規則や辞令、私企業との間に交わす契約書までもが含まれるのだ。
言語省による文法チェックを受けることは一部の例外を除いて必ずしも必要ではなかったものの、行政機関の多くはみずから公文書を送りつけて、文法チェックを依頼していた。
私が最初に担当したのは、長野市の広報誌「広報ながの」である。この広報誌には、四十件を超える文法誤りが含まれていた。私が過失で見逃したものも含めれば、もっと多かったかもしれない。
茅野市の転入届の書式や松本市役所窓口係員の心得といった公文書を修正するうち、私の心にひとつの疑念が芽生えた。公務や市民生活に影響を及ぼす公文書を、文法の修正のみとはいえ言語省にゆだねてしまってよいのか、という疑念だった。

インターンシップといえば、参加者の宿泊場所にも触れておきたい。その宿泊場所とは、ビルの最上階である。
最上階は九階であった。長野支所の常勤職員はそこに滞在しており、インターンシップ生はこの常勤職員と同居することになっていた。
部屋には二段ベッドが所狭しと並べられ、常勤職員の荷物が雑然と置かれていた。部屋の奥にはコンピュータがあり、職員証を差し込んで使うことになっている。この職員証というのはインターンシップ生に対しても発行される。
コンピュータは言語省のネットワークにつながっており、自分の勤怠や給与を確認したり、食事を注文したりすることができた。

余暇についても記しておこう。そのころ一部の職員のあいだでひそかに流行していた娯楽は、おそらくだも思いつかないようなものだろう。それはすなわち、教科書を読むことであった。
教科書といっても、まだ文部科学省の検定を通っていないものだ。正書法や文法に適合していないと検定に受からないので、言語省がその審査――そして、必要とあれば修正も――を行うのである。全国の子どもや学生より前に最新の教科書を読めるというのが、言語省の職員らに優越感を抱かせたのか。あるいは、優越感を呼び起こしたものは教科書を先に読めることではなく、正書法と文法をしっかりとわきまえていることだったのかもしれない。なぜなら職員らは仕事中でもないのに、ここが間違っている、あそこが間違っていると蛍光ペンを片手に楽しそうに言っていたからである。もちろんその翌日には真っ先にコンピュータの前に座り、教科書の編集者にあざけりの念を持ちながら、「公文書ライター」で該当の箇所を修正したに違いない。

いずれにせよ、このインターンシップに於ける経験が私を言語省に向かわせたのは疑いの余地がない。松本駅前でバンを降り、新しい友人に別れを告げたあと、私は携帯電話を取り出して「言語省 就職するには」と検索したものだ。


もちろん面接のときは、生い立ちをここまで詳しく述べたわけではなかった。少し記憶をかき回したあと、不利になりそうな事実はあえてぼやかして話したのだと思う。
しかし生い立ちを述べているうちに、三十分くらいが過ぎていたことは確実である。そのあいだ面接官の田島さんは、退屈そうなそぶりを見せることなく、私の口から話たれた言葉をかいつまんで手帳に書き記していた。
採用面接の担当者でさえ、私のつまらない昔話に耳を傾けてくれるとは。言語省は高尚な人格の持ち主が集うところなのだ!
私は完全に、言語省に魅了されてしまった。

そのあとはなにについて話しただろうか。私たちは知己のように二時間近くも語り合ったはずだが、生い立ちを話したことのほかはなにも覚えていなかった。
面接会場を出た頃にはすでに十七時を過ぎていて、私は那覇のホテルに泊まることにした。客室の扉を開けると安堵からか眠気が起こり、私は寝台に身体を横たえた。

翌日は昼過ぎの便で羽田に飛んだ。私は空港から社長に電話をかけ、面接を終えたことを伝えた。
社長は名古屋へ来ることを指示した。名古屋への航空便があるかわからなかったし、搭乗手続きの手間を考えると、鉄路にて向かったほうがいいと考えた。私は東京駅に行き、新幹線の自由席券を買った――料金が高いから、滅多に指定席には乗らないのだ――。
新幹線の自由席は混んでいた。私が乗ると同時に扉が閉まり、空席を探しているうちに列車は動き出した。
マナーモードに設定し忘れた私の携帯電話が、最大音量で着信音を響かせた。たちまち車両のいたるところから、非難のまなざしが私に向けられた。私は追い立てられるようにしてデッキに走り、かかってきた電話に応答した。

電話の主は社長だった。面接はどうだったか、受かりそうか?
そう聞かれて、私は答えに困った。私の感覚によれば合格は確かなものだったが、これまで雇ってくれた恩義というものがある以上、転職先が決まりそうなことを喜んで告げるのは無礼ではなかろうか。しかし、退職に伴う事務処理や引継ぎを考えると、これは伝えるべきだろう。
「たぶん、合格したかと」
私はあえて、暗く重々しい声で言った。


合格通知書が届いたのは、それから二ヶ月後だった。すぐに出版社に退職願いを提出し、言語省に入る手続きに進んだ。

言語省での最初の仕事は、一般人向けの正書法講座で講演することだった。言語省のウェブサイトから最新の正書法を手に入れ、それをプレゼンテーションソフトでわかりやすくまとめるのである。
自宅やカフェ、コワーキングスペースなどで仕事をする「ノマドワーク」は当時、かなり一般的になっていた。事務などの職のうち、機密情報に関わらないものは、すでにほとんどがノマドワークをしていた。
いまや肉体労働者さえも旅のなかで働いているのだ。古くなった旅館を修理して宿泊代金をまるまる割り引いてもらったり、苦労して什器を運び入れようとしている事務員を手伝って報酬を得たりすることが、すでに普通の光景となっていた。
むろん私もご多分にもれず、ノマドワークという働き方を選んだ。言語省というのは秘密の多い職場ではあるが、正書法は公に知れ渡るべきものであり、間違っても秘密ではない。

さて、正書法はとてつもなく多くの内容を含んでいるため、すべてを一時間の講演で説明することはできない。だから間違えやすいところだけを取り出さなければならないのだ。じつをいうと、教員や学者でさえも間違えるところが多すぎて、一時間の講演で話せるほどに縮めることができない。たとえばこれは、この時代のある中学校の教員が人権教育のために作った資料の一部なのだが、あきれてしまうほど正書法からずれている。

君達の少し前までは激しい競争社会!学歴主義!で、陰惨な謀略が横行していました!
君達は、過去の良い文化だけを受け継ぎ、決して過去の地獄を将来に受け継いではいけません!
思いやりと友愛の心を持つ事が、イジメ等の問題を解決する鍵となるのです!

たしかにこの教員が述べようとしていることは、正しいと思う。しかし書き方が正しくないのだ。
なにから指摘すればいいだろうか。まず、「!」を感嘆符というのだが、その感嘆符をつけていいのは文末に限られている。しかも、基準より感嘆符を使いすぎているのだ。十の文あたり最大で一つしかつけてはいけず、あとの九つはすべて「。」(句点)を使わなくてはいけない。
そのほか、「君」ではなく「君たち」、「イジメ」ではなく「いじめ」、「鍵」ではなく「カギ」と書かなくてはいけない。最後の「鍵」については、「鍵を紛失してしまった」などという文脈では漢字を使ってよいが、「解決するカギとなる」というときにはカタカナにしなければならないのだ。

当時の私は、正書法すら身につけていない人が義務教育に従事するなんてとんでもない、と思っていた。生徒が正書法を覚えないまま卒業してしまったら、どう責任をとる気なのだ?
人権より正書法のほうが、当時の私には重要なことに思えた。


まず、どこから手をつければいいだろうか。私は言語省が職員向けに提供している言語資料を画面に呼び出し、しばしば間違えられているところを探した。
数時間かけて念入りに調べた結果、なんとか二十件までしぼり込めた。あとはこれをわかりやすいプレゼン資料にまとめ、読み上げる原稿を書くだけである。といっても、これがまた労力の求められる作業なのだ。むずかしい正書法をわかりやすく説明しなくてはならないし、むろん資料は正書法にのっとって書かれなくてはならない。
一度プレゼン資料を作ってしまえば、数回は使い回すことができる。資料作りからはしばらく解放されることになるが、その間はほかの仕事が舞い込んでくるのだ。

前にも述べたように、言語省は国語辞典をつくっている。そしてその国語辞典も、正書法と同じほどの権威を持っているのだ。日本語で書かれた公文書はすべて、言語省の国語辞典に載っている語しか使ってはいけない。
コンピュータは送られてくる公文書のなかから、辞書にない単語を探しだして印をつけてくれる。私の仕事は、印がつけられた部分を適切な語に置き換えることだった。
その指示を受けたとき、私はかすかながらも疑問を抱かずにはいられなかった――辞書に載っていないが、公務上あるいは記録に残すうえで必要な概念については、どうすればよいのか?
まあ、そんな概念を見つけたら上司に訊けばいい話だ。実のところ、公文書で使われている言葉はほとんど辞書に載っているし、辞書にない語などというのは、適切な言い換えがいくつも見つかるようなものばかりだった。

この仕事になれてくると正書法の講演を後輩に引継ぎ、こんどはさらにむずかしい仕事に取り組むことになる。公文書に使われている語の一つひとつが、辞書に載っているものと同じ意味で使われているかを確かめるのだ。
むろんこれも、あらゆる公文書が言語省に送られるわけではない。すべての公文書のうち十分の一にも満たないだろう。出版物やウェブサイトなどで一般に公開されるものはすべて言語省を経ることになっていたが、行政機関の中だけで使われるものにかんしては、その必要などなかった。しかし行政機関は十年前と同じく、修正の必要のない公文書までもを言語省に差し出してくるのだ。

当時の言語省国語辞典は公文書に必要な語を十分に含んではいたものの、民間で使うには収録語が圧倒的に足りなかった。そこで言語省は、世間ではどのような語がどのような意味で使われているかを調べたのである。
たぶん、民間企業や研究期間から引き抜いてきた辞書編集者や言語学者などを、ことにあたらせたのだろう。
私は、コンピュータシステムを扱う会社に、日本語で書かれたウェブサイトを収集する処理を依頼したことがある。商談などはじめての経験だったが、取引はすんなりと成立した。ブログや個人サイトを運営している人が少なくなっているとはいえ、過去一年間に公開されたものだけでも、とんでもない量になるだろう。これを分析して辞書にするというのだから、ほんとうにすごい能力を持った人を集めたものだ。
むろん、情報源はインターネットだけではない。国立国会図書館に保管されているさまざまな資料も――過去二十年以内のものに限るのだが――、片っ端から分析されるのだ。こうして十分な語が集められると、言語省国語辞典は大衆に広く知らせられた。言語省は新聞や放送、インターネットなどに広告を出し、ご自慢の国語辞典を誰もが知るものにした。

無料で使えて動作も安定しており、広告がつかない。これだけで、インターネット上にあふれる無料辞書や気軽に買えない辞書アプリに対して、はるかに優位なのはいうまでもない。しかも政府がつくったのだというのだから信頼性も高い。結果として日本で最も使われる辞書となったことは、想像に難くないだろう。

高校や大学の入試問題は、言語省国語辞典に基づいてつくられるに違いない。言語省国語辞典にのっとった言葉遣いをすれば、商取引の場でも恥をかかずに済むだろう。わからない言葉を調べるには、無料で使えて信頼性の高い言語省国語辞典がいちばんだ。こうした考えから、多くの人々は言語省国語辞典を使いはじめていた。
こうした状況は新聞でも取り上げられていたし、日常生活のなかで実感することも多かった。

高校時代の友人と話したときのことだ。その友人は、会話のなかで自分の知らない言葉を聞くと、すぐに携帯電話を取り出して調べるのだ。なにで調べているのかと尋ねると、言語省国語辞典だ、という答えが返ってきた。
自分の勤め先の「製品」ながら、ここまで普及しているとは知らなかった。だが、私はそれにいささかの不安を覚えずにはいられなかった。

もし、日本で唯一の国語辞典となったこの辞書を編集している人が、語とその意味をほしいままに改変したら、どうなってしまうのだろうか。間違いを指摘するための言葉も、少なくとも辞書の上からは消し去ることができてしまうのである。
「そんな言葉、辞書にないじゃないか。おまえはなにを言いたいんだね?」こう言われてしまえば、反論のしようがない。
これはまだ言語省内の話だ。庁舎の門から一歩踏み出せば、さらにおそろしい現実を目にすることになるだろう。すなわち、この国のあらゆる人や機関が、ほしいままに書き換えられた辞書に基づいて聞き、話し、読み、書き、考え、そして行動することになる。
政治に目を向ければ、もっと陰惨な情景がいやでも眼球に飛びかかってくる。憲法をはじめとして、この国のあらゆる法典や規則は日本語によって書かれている。日本語を変えることさえできれば、最高法規であるはずの憲法など、いくらでもねじ曲げることができるのだ。おそろしいかぎりではあるまいか。
いくらなんでも、それは考えすぎというものだろう。そんなことはありえない。私は自らを、そう信じ込ませた。さきに述べたことは、じっさい起きておらず、まだ私の想像力の産物に過ぎなかったのだ。

しばらくすると、私は言語省の本部へ移ることになった。引っ越しに伴う手続きやもろもろの作業は慌ただしかったが、この私に本部で働ける日が来ると思えば、楽しみでわくわくしていた。

東京一局集中を是正するため、各省庁の本部は地方に分散された。これは二千二十八年からはじまり、十年かけて完了される予定だった――じっさいは五年ほど遅れてしまったが。二千二十八年というと半端な数字に思えるかもしれないが、和暦でいうと令和十年である。御代替わりから十年という節目に、我が国のかかえていた弱点である東京一局集中を、まずは政府から解消していこうとしたわけである。
むろん言語省も、地方分散の例外とはならなかった。言語省の本部が置かれたのは、長野市だった。

少なくとも、私が働きはじめたころの言語省は、おもしろい職場だったといえるだろう。先進的な雰囲気につつまれていたし、「宇宙人と会話するに適した言語はなにか」だとか、「国連にも言語省のような、『国際語標準化機関』をつくるべきだ」などという議論が交わされていた。
そこで私は、学生向けの催しを担うことになった。
言語省は、高校や大学を通してインターンシップを募ったり、さまざまな催しを行うことで若者の関心を引きつけていた。その多くが「言語をつくるワークショップ」だとか、「古典文学を現代語に訳してみよう」だとかいう飛び抜けたものだったので、個性的なものにあこがれる当時の若者の心をつかんだのである。
さて、私たちは中学生に言語省の魅力を伝え、言語省で働きたいと思わせなければならなかった。これが職務上の命令である。
とはいっても、どうやったら現代の若者に、言語省の魅力とやらを伝えられるというのだろうか。メンバーには心理学などに詳しい人はいなかったし、どうすればいいのか皆目わからなかった。そんなときはとりあえず会議を開くというのが、決まりきったやり方だった。「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあるように、みんなで集まればなにかしらの結果が生まれるのではないか。少なくとも、事がうまく運ばれなかったときには、責任を分け合って一人当たりの負い分を少なくすることができるので、みんなにとってラクなのだ。こう考えていたのは、なにも言語省の職員だけではなかったかもしれない。
私は業務用のラップトップコンピュータを机に置き、「資料共有システム」と「公務用メモ」というソフトウエアを起動した。
「資料共有システム」は、会議資料を共有するためのソフトウエアである。これを使えば紙を無駄にしなくて済むし、配られた資料がどこかへ漏れ出すこともない。
「公務用メモ」は一見すると、ちょっと格好悪い見た目のメモソフトに過ぎない。しかしこのソフトウエアで取ったメモは、打ち込んだそばからコンプライアンス課に送られるのである。そして、不正行為や嫌がらせのにおいがないか、人工知能がメモを隅から隅まで嗅ぎまわすのだ。
会議室を見渡すと、ほとんどの参加者がラップトップコンピュータを机の上に広げていた。私は「公務用メモ」の画面をクリックして、日付と会議名を打ち込んだ。メモを取ったって結局読み返さないのにな、という思いが頭の片隅をよぎった。機密保護だとかいう理由で、メモを持ち出せないようになっているのだ。仕事中は忙しくて見られないし、いったん庁舎を離れてしまえばメモにはアクセスできない。紙でメモをとることが許されていたならば、青いこぢんまりとした市街地循環バスの客席で、弱い室内灯を頼りに要点だけをちらちらと読み返すことができただろう。
「催しの内容について、なにかご提案はありますか?」議長の声だ。考えごとをしていて、会議がはじまったことにすら気づいていなかった。
「はい」先輩職員の湯本さんが手を挙げた。
「では、湯本さん」
「『文学的な表現をしてみよう』というのはどうでしょうか」
文学的なひょうげん、と私は打ち込んだ。湯本さんはすぐれた頭脳を持っている。どんな場合でも、湯本さんが発案したものは大成功に終わるのだ。湯本さんが指導してくれたおかげで、本部に異動してきたばかりの私でも、この仕事に慣れることができたのだ。
「・・・小説家とか、ジャーナリストとか、そうですね、物書きになりたいという子も多いんじゃないかと思うんです。だから、『文学的な表現をしてみよう』っていう内容だと、たくさんの子が集まってくれると思いますし、言語省の魅力も伝えられると思います」
完璧だ――「思います」を繰り返しているところを除いては。私は、尊敬とあこがれのまなざしで湯本さんを見つめた。
「ほかに、ご提案はありますか?」議長が言った。
「はい」挙手したのは岩橋さんだった。実のところ、私は岩橋さんをあまり好きではなかった。
「えっと、提案なんですが、インターネットなどの新しい技術によって、日本語がどう変わっていったかということを・・・」
インターネットが新しい技術だって?
この人の頭は、平成のちょうど真ん中くらいで止まっているんじゃないだろうか。令和二十六年の日本では、インターネットというのは電話や道路と同じくらいありふれたものである。私は、こんな人の案など聞く価値もないと決めつけ、「公務用メモ」の画面を前に、新しい案を考えようとした。そのとき思いついたのが、辞書に関するワークショップだった。私はキーボードを叩いた。

辞書ワークショップ
言語省国語辞典・英和・和英辞典を引いてみよう

「ほかに、ご意見、ご提案はありますか?」
「はい」私は答えた。
「私の提案は、」コンピュータの画面をちらりと見た。辞書ワークショップ、引いてみよう、だ。
「辞書を引いてみよう、というワークショップはどうでしょうか。言語省国語辞典とか英和辞典とか、使い慣れていない子も多いと思うんです」
「反対です」岩橋さんが言った。
「子どもたちは言語省の辞書に慣れています、小学校の二年生で引き方を教わってますからね」
だからこの人は好きになれないのだ、と私は思った。岩橋さんは私の一挙一動に異を唱える。この前の会議で私が出した案に、唯一反対票を投じたのもこの人なのだ。「人工言語をつくってみよう」という、高校生を対象としたワークショップの案だった――しかしそれは、結果として失敗に終わった。時間内に言語をつくりあげた参加者はおらず、終了後のアンケートでも「おもしろくなかった」と「あまりおもしろくなかった」の合計が五割を超えていたのである。
このいやな感情が生じたのは、岩橋さんが私を非難するから、というだけではなかったと思う。世界が岩橋さんの言うとおりになることにこそ、はなはだしい嫌悪感を覚えたとはいえないだろうか。
会議室に鳴り響いた着信音が、いっそう私を不機嫌にさせた。壁に備え付けられた内線電話機が、着呼を示す表示灯をはげしく点滅させている。
会議室の内線電話は、受話器を取る必要がなかった。一秒後に自動的に応答し、着信音を鳴らしているこのスピーカーから相手の声が聞こえるのだ。
「会議中失礼いたします」聞き覚えのない声だった。
「催しについてなんですが、辞書にかかわるものは、できるだけ避けていただきたいのです」
ほら言ったじゃないか、というような目つきで岩橋さんがこちらを見た。またこの調子だ。この世界は岩橋さんに肩入れしているのだろうか。途中で会議を抜け出すわけにもいかず、私はそのいやな気持ちをかかえたまま仕事をしなければなかった。

仕事を終えて市街地循環バスに乗り込んだときには、いやな気持ちもいくらかは消えていた。しかし、それゆえにおおいかくされていた疑問が、はっきりと姿を現したのである――なぜ言語省は「売り」であるはずの辞書を、避けろなどというのだろうか?
その疑問は、バスの揺れとともに大きく膨らんでいった。


私は読書が好きだが、当時は貯金するために節約していたので、古書店をよく利用していた。
二千四十六年の休日のことだった。いつものように千円札を持って古本漁りをしていると、むかし読みたいと思っていた小説を見つけた。「見捨てられた魂」である。作者の名字が私と同じだったので、読んでみたいと思ったのだ。
奥付を見ると、初版が出たのは平成二十九年だと書かれていた。平成二十九年!
平成時代の本なのだ!これを逃すと、もう手に入らないかもしれない。幸いなことに、価格はわずか七百十八円である。もちろん私は、これをレジに持って行かないわけにはいかなかった。

貴重な本を握りしめて古書店を出ると、青色の見慣れた車体がこちらに向かってきた。私は本を脇に抱え、ポケットから携帯電話を取り出した。ドアが開くと同時に乗り込み、携帯電話を読取り装置にかざした。車内は空いてはいなかったが、私は座席に座ることができた。座席に腰を下ろすと、バスが動き出さないうちに私の目は活字に向けられていた。
この小説には、「数奇」という言葉が、「彼の友人もまた、数奇な運命に拘束され・・・」といった文脈で使われている。はて、数奇とはどういった意味だろうか?
私は反射的に携帯電話を取り出し、言語省国語辞典で「数奇」を調べた。私が知りたかったことの代わりに表示されたのは、その語が言語省国語辞典に含まれないという事実だった。

お探しの語は見つかりませんでした。検索語句に誤りがないかご確認ください。

あれ、なにか間違えたかな、と私は思った。検索窓から本へ、本から検索窓へと目線を動かす。漢字の画数も数えてみたが、まったく同じ「数奇」という言葉だった。
この本が間違っているのだろうか――だとしたら、本来はなんという言葉が入るべきだったのだろうか?
降りるべき停留所が近づいていた。もやもやとした不快な感覚をいだきながらも、私は荷物をまとめて降車ボタンを押さなければならなかった。

家に帰ると、高校時代に使っていた電子辞書を探すため、整頓されていない物置を開いた。ここに引っ越すときに捨ててしまったかもしれないし、仮に持ってきていたとしても、回路が壊れているかもしれなかった。しかし私は、それでもあの電子辞書を必要としていた。
一時間くらい探したところで、ようやくほこりまみれの電子辞書ケースを見つけた。触感からして、中身は空ではないようだった。
電池が入っていなければいいのだが、と私は思った。液漏れでもしていたら厄介なことになる。私は劣化した保護ケースのファスナーを無理やり開け、色あせた電子辞書を引っ張り出した。電源ボタンを押したが、もちろん起動しない。
電子辞書を裏返して電池入れを開けると、なんと幸運なことだろうか、電池は入っていなかった。電池入れには「単3」という刻印がある。たしかコンビニで売っていたはずだ。
沈みかけた夕日を横目に、私はコンビニエンスストアに向かった。いまではもう乾電池など使う機会がなく、かつては至るところで使われていた単三電池といえども、コンビニエンスストアに売られているかはわからなかった。
電気製品の売場にはモバイルバッテリーやワイヤレス充電器などがところせましと並べられていて、乾電池は単三が隅に一パックだけ置かれていたにすぎなかった。私はそれをレジに持って行った。パッケージは黄ばんでいて、使用期限までは二ヶ月しか残っていなかった。
「これで最後ですよ、この店で乾電池を売るのは」私は名札を見た。「店長」と書いてあった。
「お客様の前に乾電池が売れたのは、もう半年も前のことになります――いまや乾電池なんて、誰も使いませんからね」
店長さんは乾電池のパッケージを読取り機にかざした。
「六百円です」
「Nペイで」私はスマートフォンを取出した。

家に帰り、乾電池を電子辞書に入れた。動いてくれと念じながら、私は電源ボタンを押した。
液晶画面が薄暗く光り、検索窓が現れた。黄ばんだ液晶画面には、横線が何本か入っていた。
私は、経年劣化して押しづらくなったキーボードで、「すうき」と打ち込んだ。

すうき【数奇】
運命のめぐりあわせが悪く、不運なこと。また、運命の変化がはげしいこと。

なぜ言語省国語辞典には、この言葉が載っていないのだろうか?

編集の担当者がが単に見落としただけかもしれない。いや、そうに違いないのだ。明日メールで問い合わせてみよう。
電子辞書から、キーンという甲高い不快な音が聞こえた。画面は赤と緑の市松模様で埋め尽くされたあと、十も数えないうちに真っ黒になった。何度電源ボタンを押しても反応はなく、いやな臭いのする黒い煙が放たれるのみであった。

翌朝、私はいつもより三十分ほど早く起き、消火剤まみれの壊れた電子辞書を処分してから、カフェで業務用のコンピュータを開いた。
認証用のセキュリティキーを差し込み、メールソフトを起動した。そして、「数奇」を入れ忘れたことを指摘するメールを書こうとしたところで、はたと困ってしまった。
誰が、あるいはどの部署が、辞書の編集を担っているのだろうか。責任者が誰なのか、組織系統がどうなっているのか、まったく分からないのだ。
私は、言語省の職員向けウェブサイトを開いた。たしか、ここに組織図と連絡先が載っていたはずである。
組織図そのものはすぐに見つかった。トップに言語大臣がいて、それから各部署に細かく分かれている。私が所属しているのは「言語教育・若年層啓発部」だ。
辞書を編集する部署は、組織図のどこにも見あたらなかった。画面をよく見ると、「詳細を表示」というボタンがある。それをクリックすると、組織の末端までの細かな図が画面を埋め尽くした。
この中から辞書編集の責任者を探し出すのは、さすがに骨が折れる。今日中に片づけなければならない仕事がたくさんあるのだ。編集ミスなら、誰かが気づいて直してくれるだろう。そう思って、私は組織図を閉じた。

さすがにこれはおかしいと思ったのは、自分史を書いているときだった。二千四十六年から二千四十七年ころといえば、自分史づくりが流行していた時期である。私もその流行に乗って自分史を書きはじめ、幼稚園で同級生を泣かせてしまったあの事件を思い出したのだ。私は、言語省国語辞典で「鬼」を調べた。

お探しの語は見つかりませんでした。検索語句に誤りがないかご確認ください。

私は検索窓をもういちど見た。字に間違いはなかった。「鬼」という言葉もまた、言語省国語辞典には載っていなかったのである。ということはまさか、言語省は言葉を削減しているのか?
このエラー表示は私にとって、鬼の足跡より恐ろしく感じられるのだった。
私は高校時代に、「1984年」という小説を読んだことがある。ジョージ・オーウェル氏という二十世紀の作家が書いたものだ。そこには英語を改造した「ニュースピーク」という言語が登場する。
ニュースピークは、英語から政治的に望ましくない言葉をすべて取り除いたうえで文法を簡略にし、必要最低限度を超えた単語を削ったものである。そして作中の設定では、ニュースピークはまだ完成していない――すなわち、語彙がつぎつぎと減っていく言語なのだ。

言語省は、二十一世紀も半ばに近づいた我が国、この現代日本で、ニュースピークをやろうとしているのではないだろうか?

私は自分史をある程度書き終えると、コンピュータプログラムを組んだ。
自分史のなかにある語句から固有名詞を除いたものを、ひとつひとつ言語省国語辞典で調べ、辞書にない場合はその語を一覧表に書き加える、というものだ。
プログラムを動かした結果は、次のとおりだった。

・鬼
・腑に落ちない
・物言い
・まん延
・どん底
・疫病
・小話
・抹殺
・血の気が引く
・臨時

動作記録にはエラーメッセージが書かれていた。読んでみると、同時に多量のアクセスなので拒否された、というような意味だった。
私はプログラムを改良し、もういちど試した。検索と検索の間にはは三十秒空け、VPNを使ってIPアドレスを毎回変更するようにし、活用している動詞はもとに戻してから調べるように変えた。
コンピュータの電源を切らずに眠り、約六時間後の翌朝に結果を確認した。六時間は三百六十分で、一分間に二語句を検索することになるので、約七百二十語句が検索されたことになる。
結果、辞書に載っていなかった語句は百を超えていた。私の書いた自分史のおよそ七分の一が、言語省国語辞典に載っていないということだ。これはすなわち、自分の人生の七分の一が、公的な権力によって、なかったことにされたとはいえないだろうか?
なにしろ言語省国語辞典というのは、日本語を使うすべての人に対して強い影響力を持っているのだ。母語話者だろうが非母語話者だろうが、だれもが言語省国語辞典を使って言葉を調べる。言語省国語辞典から百の語句が消えることは、日本語から百の語句が消えることと同じだ。
では、英和や和英の辞典はどうだろうか?私はコンピュータで言語省英和辞典を開き、「sin」と入力した。

sin
悪いこと。道徳あるいは宗教の価値観に反し、非難されるべきこと。

たしか、「罪」という意味だったはずである。しかし、「罪」とは書いていないのだ。言語省和英辞典で「罪」と調べた。


a crime

crime、すなわち法律上の犯罪という語しか載っていなかった。日本語の「罪」という語から、sinの意味が消えたのだ。

言語省では――どこの官庁や企業でも同じだとは思うが――個人の記録媒体を持ち込むことは許されなかった。語句の一覧表を小さな記録装置に入れて持っていったり、クラウドストレージに保存して庁舎内で取り出したりすることはできないのだ。印刷して持って行こうとも考えたが、語句の数は多いし、紙だとデータの再利用が難しい。
私はウェブブラウザを開いた。そして、言語省のウェブサイトから、小さな字で表示されている「その他」をクリックし、「ご意見・お問い合わせ」のページに移った。私はその問い合わせ欄に、こう書いた。

言語省国語辞典 編集責任者様

私は、言語省で働いている久下沼陽向です。

私用でも言語省国語辞典を使うのですが、かつて一般的に使われていたと思われる語句が掲載されていないことがあります。

言語省国語辞典は国の機関である言語省が発行しており信頼されているのみならず、無料であるため、ビジネスや教育などさまざまな分野で使われています。公的機関として、日本一使われている辞書の編集機関として、そして事実上日本語を管轄する機関として、言語省は重大な責任を負っています。
なぜ、これらの語句は辞書に載っていないのでしょうか。編集がずさんすぎて見落とした、ということでしたらまだましです。まさかとは思いますが、日本語の語彙を削減しているのではないでしょうね。

我が国は長い不況を乗り越え、農林、水産、商工業がいちじるしく発展し、いまや国際社会で重要な地位を占め、観光も栄えています。むろん、我が国の国語である日本語もまた、重要な地位にあります。その日本語をねじ曲げ、語彙を削り取ることは許されるべきことではありません。

その文に続けて、一覧表の語句をすべて貼り付けた。そして自分の電子メールアドレスを加え、送信ボタンをクリックした。

さきの行動は我が身を危うくしたのではないか。庁舎に向かうバスのなかで私はそう考えた。注意されるだけでは済まず、懲戒免職を受けることになるかもしれない。あるいは当局の手によってどこかに連れ去られ、恐ろしい目に遭わされるかもしれないのだ。
結局のところ、その日も次の日も、これに関連することはなにも起きなかった。電子メールの受信箱を開いても、言語省からの返信はなかった。

自分の勤務先である言語省に対して疑いを抱くと、自分が担っているこの仕事をも疑うことになる。
ワークショップを開いて、子どもや若年層に言語の面白さを啓発する――たしかにこれは悪いことではないだろうし、社会にもある程度の利益をもたらしていることは否定できない。しかしながら、税金を使って毎月行うべきことかというと、疑問符をつけないわけにはいかないのだ。
思えば正書法や文法だって、政府が定めなくてもたいした問題にはならないのではないだろうか。二千二十八年以前にも、横書きのウェブサイトで読点に「、」を使われていることがあった。しかしそれでも批判を受けたり、裁判所から修正を求められたりすることはなかったはずである。
一方で、私の友人はいつも「,」を使っていたが、それを古すぎるとからかう人はいなかった。

>言語省は、権威ある辞書によって日本語をほしいままに書き換え、もって日本語を支配するためにつくられたのではないのだろうか。そして本来の目的を隠すため、無害であるばかりか一見有益な活動をしているのではないだろうか。
きらきらと輝くこのかぶせものの下には、真っ黒な虫歯が身を潜めている。私はかぶせものの上でかざりつけをしていたに過ぎないのだ。ならば私はここにいることはできない。私の良心は欺瞞によって生きることを許さない。
さいわい私には八百万円の貯金と、そしてものを書く才能がある。たとえ言語省を離れたとしても、生活にさしせまった困難が生まれることはないだろう。こうして私は、言語省を退くことにしたのである。

退職にあたって、私は辞書の件を上司に伝えた。そのあとも定期的に言語省国語辞典にアクセスしているが、消えた語句は一向に戻らない。


言語省国語辞典に侵されつつあるこの日本語では、おそらくこの本は生き残れないだろう。言語省に葬られた語句をふんだんに使っているからである。そこで私は大学時代の友人を通じて、ドイツ、ロシアおよび台湾の出版社にこの原稿を送った。日本語を運用できる担当者の方がこれを読み、翻訳して出版するか否かを決める。

書きたいことをそのまま書いたので、訳しにくい文になっていることをご了承願いたい。

言語省による欺瞞と陰謀が、全世界に知れ渡らんことを。


追記

この本を電子書籍で出版してから、一年ほど経ったときのことだった。
言語省の職員から内容に関する指摘を受けた。私はそれを読んで、はたと考え込んでしまった。ご本人の許可を得たので、ここに抜粋して掲載させていただきたい。

・・・たしかに言語省国語辞典は、語句を削減しているのかもしれない。しかし、収録語句を選ぶ基準を明らかにしてしまうと、テロ組織や外国諜報機関のプロパガンダに利用されてしまう懸念がある。

さて、君が何から何を守ろうとしているのかについて考えてみたのだが、おそらく君は「言語省の統制から、語彙の多様性を」守りたいのだろう。きつい言い方になるが、愚かで浅はかだと言うしかない。

自由、多様性、尊厳、プライバシーといったものを尊重する近代的な価値観を、君は疑うことなく受け入れている。しかしよく考えてみれば、これが正しいという根拠はどこにもないのだ。自由やら多様性とやらより尊いものを、言語省は守ろうとしているのだと私は思う。そのためには、近代的な価値観を疑わない人々をだます必要だってあるだろう。ほんとうに「だますことは悪いこと」なのだろうか。隠された財宝を求めて危険な地に踏み込もうとしている人に対して、「そっちはくまなく調べたけど、お宝は見つからなかったうえ、怖い化け物がうじゃうじゃいたよ」と嘘をつくのは、悪いといえるだろうか?

では、「語彙を減らす」ことは悪いことか?
たとえば、差別語は人を不快にさせるから消されるべきだし、わかりづらい言葉はわかりづらいから残す価値はない。かつて存在していた語句が残っていたとしたら、君は「キモい」、「KY」と呼ばれるべきなのだ。これを現在の言葉に直せば、「秩序に反し、周囲の人々を不快にさせる」、「規範を理解せず、混乱をもたらす」となる。

語彙を減らせば、古い記録や作品も読めなくなるかもしれない。しかしそれを「悪い」というのは間違っている。むごたらしい過去は忘れ去られるべきだし、難解な言葉を並べ連ねたものはいずれにせよ難解である。それに、古い記録や作品といったものが、それほど貴重であるとは思わない。・・・

私がこれからしようとしていることが、正しいという自信はない。しかし、すでに動き出したものを止めるわけにはいかない。一般社団法人日本語文化芸術保存協会は、すでに法人登記を済ませている。著作権が切れた古い作品や資料を電子記録装置に入れ、協会にて保管し公開する――むろんそのなかには七十年前の辞書も含まれている。
いまから七十年前といえば、千九百八十四年である。千九百八十年代の辞書なら、言語省に消された語句を補うには十分といえるのではないだろうか。

いずれにせよ、言語省に消された語句を守るのは私たちしかいない。これらの語句はたとえ大衆から忘れ去られるべきであっても、永遠にアクセス不能なものとなってはいけないのだ。

二千五十四年十月二十四日
一般社団法人日本語文化芸術保存協会会長
久下沼陽向


著者略歴

池田笠井闘志

本名 笠井闘志。池田は離婚した父の姓。

 

二千四年九月二十二日、長野県長野市で生まれる。

二千十一年 両親が離婚。長野市立中条小学校入学。

二千十三年 学校法人いいづな学園グリーン・ヒルズ小学校に転校。

二千十四年 同校を不登校。

二千十七年 長野市立裾花中学校に入学。宗教法人GLAの活動に参加をはじめる。 同年12月より職員室登校をはじめる。

二千二十年 長野県須坂創成高等学校に入学。

会員登録可能な年齢に達したため、宗教法人GLAの会員となる。

二千二十一年 学校法人角川ドワンゴ学園 N高等学校に転校。

教義や組織体制への疑問から、宗教法人GLAを退会する。