笠井闘志 個人ウェブサイト


GLAをしりぞいた理由

GLA関係者の方へ:この記事は,GLAの活動に対する意見,社会にかんする思想の表明です。GLAおよび高橋佳子氏を誹謗・中傷する意図はありません。この記事が冒涜的,不適切または不穏であると感じられる場合は,公開している連絡先にご指摘ください。適切な方法をもって連絡され,正当なご指摘内容であるかぎり,記事の訂正や削除に応じます。


私は神理を畏敬していた。だからこそ,GLAをやめないわけにはいかなかった。もし私が神を信じておらず,神理を軽くあしらっていたとしたら,浅草の本館に社交の場として通いつづけただろう。

GLAでの記憶を呼び起こすと,浮かび上がってくる思い出は楽しかったことばかりだ。先輩方は私を弟のようにかわいがってくれたし,おなじ学年の親友もできた。プロジェクト活動(神理の学びをかねて,行事などの運営に参加すること)にもくわわり,東京の街から山梨の研修場所にいたるまで,さまざまな場所をおとずれた。

GLAをしりぞくということは、その楽しい日々を捨て去ることを意味した。先輩や友人との関係が一瞬にして消えるわけではないにせよ,すくなくとも積極的に会う理由のひとつを失うということになる。もはやプロジェクト活動も参加することはできず,親友と歩いた合宿の夜は二度とやってこない。私はそれをじゅうぶん理解したうえで,退会の書類にみずからの名を書き記したのだ。

GLAの問題は,反社会的であることではない。むしろ,向社会的すぎることが問題である。社会の流れに迎合し,社会にとって心地のいいことだけを言う。そして「神理」の効能を礼賛しながらも,かんじんの「神理」の中身については言葉をにごす。社会からけっして嫌われないように最大限の注意をはらい,真理や神理よりも社会に耳をかたむける。

私はなにも,東京を破壊兵器で吹き飛ばせといっているのではない。社会への批判,大衆への批判であっても,臆することなく口にして文字にすべきだといっているのだ。
この社会にはさまざまな問題がある。貧困やいじめ,環境破壊,そのほか数え上げたらきりがない。それをつくりだしているのが私たちの心だとすれば,私たち自身を叱りつけなくてはならない。自分たちの耳に槍を突き刺す覚悟がなくて,だれが神理を語れるというのだ?

社会に適合できない人

どの社会にも──古代の村から現代の東京,そしておそらく未来の月面国家も例外ではないだろう──適合できない人というのが,どうしても存在する。重要なのは,社会がそれをどう受けとめるかである。

イギリスの作家ジョージ・オーウェル氏が小説「1984年」でえがいた社会は,愛情省に連れ込んで矯正した。いまの日本社会は,職場や学校,あるいは市場から排斥して,暗に自殺をうながしている。GLAは,だれもが社会に適合できるわけではないという事実じたい,否定する。

私は,たくさんの社会を用意するべきだと思う。つまり,それぞれの国や都市が独自の価値観をもつことである。
地元で生きづらさを感じれば,都会に出てゆける時代が,かつて存在したらしい。それは,地元と都会がべつの社会だったからこそ,ありえたことだ。日本ぜんたいがひとつの社会になれば,逃げるには海をわたるほかない。地球ぜんたいがひとつの社会であれば,国際宇宙ステーションくらいしか逃げ場はない。

さて,社会に適合できず苦しんでいる人に,GLAの教義はなんというだろうか。「あなたの苦しみは,理論上存在しえない」。そういうのだ。GLAは,社会が人間によってつくられたものであることを否定している。この社会じたいが,神の名において認証されたものである,と暗に述べているのだ。

予防接種と受験

GLAは,CoVID-19ワクチンの接種を推奨している。たしかにCoVID-19ワクチンは安全で効果的かもしれないし,陰謀論や誤解がひろまっているかもしれない。しかし,予防接種は宗教の語るべきことだろうか?

予防接種は医療や医学の領域であり,まちがっても宗教のたずさわるものではない。なぜ宗教団体であるはずのGLAが,予防接種などというお門違いのことに口を出すのか?(もちろん,へんな陰謀論を垂れ流すよりはましだろうが)
GLAは市場社会のお眼鏡にかなうようにするため,徹底して宗教らしさをとりさったのだろう。そのせいで,宗教ですらなくなっている

そして,GLAは受験にかんしても口を出している。受験は教育の領域であり,社会的な領域でもある。だが,宗教が口出しすることではないはずだ。

また,GLAは理系進学を推している。文系的なことはすべて高橋佳子氏がになうとでも考えているのだろうか。

「神理」はなんのためなのか

「神理」はなんのために存在するのだろうか。なんのために,「神理」を学ぶ必要があるのだろうか。

個人的な成功のためなのか,GLAを拡大するためなのか,それとも,人類ぜんたいの利益を目的とするのか。

GLAでは,個人的な成功をひんぱんにとりあげる。受験や就職から,経営や家庭円満まで。そして,しかし,長期的な人類の利益については,ほとんどなにも言わない。

「神理」を伝える方法

「神理」を伝えることをほんとうの目的としているならば,GLAはそれに失敗している。多くの人に伝えるという目的にとって,いちじるしく非合理的な方法をとっているからである。

書店に並ぶ本は会の宣伝,いわば「神理」の予告編のようなものだ。そして会に入って研鑽プロジェクトに所属し,定期的な講演を聞かなければ学べない。なお,講演は録音・録画禁止である。これでは,「神理」にふれられる人はかぎられる。

いまは個人が印刷機を持つことができる。だから「神理」を印刷して,指定の条件下での複製と再配布をゆるしたうえで配布すればよいのだ。そうすれば,街にあふれたコピー機をとおして,「神理」はたちまちひろがっていく。

幸運なことに,インターネットなるものもある。サーバーを借りてドメインを取り,HTMLで書いた「神理」をアップロードすればいい。これも指定の条件下で複製と再配布をゆるせば,「神理」をもとめる人がおしかけたせいでサーバーがダウンしても,「神理」の普及がとどこおることはない。

「神理」がそれほどすばらしいものなら,世界じゅうのあらゆる人々がそれをもとめるだろう。だから,「神理」を指定の条件下で翻訳できるようにすべきだ。そうすれば,ヨーロッパや中国,アフリカや南アメリカにいたるまで,あらゆる地域のあらゆる言語で伝えることができる。

聖書はいまやあらゆる言語に翻訳され,最寄りの書店で手にすることができる。大型の書店に行けば,さまざまな宗教書や思想書がずらりとならんでいる。
自由ソフトウェアをおしすすめるFSFGNUプロジェクトは,その理念と思想をみずからのウェブサイトで公開している。なぜGLAは,出版とインターネットという魔法の伝達手段を,最大限活用しないのか?