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Web3.0はディストピアを招く──悪魔的精神に支配されるウェブ

2022-05-22

近ごろ,Web3.0 あるいはWeb3という言葉が聞かれるようになった。

このWeb3.0というものに,情報技術にたずさわる人々はおおむね肯定的な見方をしていると思う。分散型でプライバシーが保たれるとか,自由になるとか。

分散でプライバシーが保たれ,自由である。たしかにそれは正しい。思えばかつてのWeb1.0も,分散されていて自由なものだったはずだ。

しかしWeb3.0は,かつてのウェブにはない,おそろしい特性をもっている。

Web3.0とは

さて,問題のWeb3.0とはどのようなものか。それを説明するためには,Web1.0とWeb2.0から説明したほうがわかりやすい。

まず,Web1.0とは,すなわち初期のウェブである。個人や研究機関,企業などがそれぞれ情報を発信したり,サービスを提供したりしていた。情報は分散されており,発信は自由だった。

つぎにWeb2.0が登場するわけだが,この要点はカネである。インターネットはカネのやりとりを想定しておらず,インターネット外の経路(銀行振込やクレジットカードなど)でカネをやりとりする必要があった。そして,中央集権によりカネのやりとりをしやすくなったのが,Web2.0である。

個人や小さな企業でも,「ネットで稼ぐ」ことができるようになる。しかしそのためには,分散と自由をあきらめなければならなかった。

YouTubeというプラットフォームで動画を投稿し,視聴回数に応じて広告収入を得るYouTuberを例にあげよう。YouTuberの収入はYouTubeの運営元であるGoogleから払われており,Googleの気分次第では収入源を絶たれるかもしれない。だから,Googleのお眼鏡にかなう投稿しかできなくなってしまう。

ブログも同じだ。ブログのサーバーこそ分散されているが,収入源はGoogle頼みであることがほとんどだろう。Googleの広告タグを設置すると,読者を追跡してひとりひとりが関心をもちそうな広告を表示する。読者のプライバシーをかすめ取って転売する行為であるが,そうでもしなくてはカネを稼げなかった。もちろん記事内容もGoogleのお眼鏡にかなわなければならないし,みんなに見てもらえるものでなくてはならない。社会問題にかんする見解を述べるより,物欲をあおったほうが稼げるのである。

カネを稼ぐことをあきらめれば,自由と分散とを手にすることができた。じっさいに,Web2.0が台頭した時代でも,カネを目的としないウェブサイトは,自由と分散を謳歌していた。しかし,乱立したカネ目的のサイトが検索エンジン最適化(検索結果に表示されやすくすること)に力を入れ,目に入るのはカネ目的のサイトばかりになってしまった。

さて,こんどは本題のWeb3.0といこうか。いってしまえば,「分散と自由をたもちながらにして,カネを流通させる」というものである。このさい,ブロックチェーンだとかNFTだとかいったむずかしい言葉は,いったん忘れていい。みんなが支配権を持つウェブのありかたと考えていただきたい。

カネは悪魔的精神を呼ぶ

カネとは,悪魔的精神を呼び起こす。悪魔的精神という言葉がおそろしいと思うなら,あらゆる人間の心にひそむ闇といいかえることもできる。カネは苦しみや死とおなじく避けては通れないものではあるが,闇が闇だけにやたらとふれるべきではなく,慎重にならなくてはならない。カネと悪魔的精神のことについて,くわしくは別の記事で述べたい。

かつては,カネの話をするのは,性の話とおなじようにタブーとされていたようだ。古くさいとか,子どもにもカネのことを教える(心の闇を引き出す?)べきだとかいわれ,カネの話はもはやタブーではなくなっている。

映画『君の名は。』では,宮水家に伝わる舞いが描かれている。この舞いは彗星が半分に割れて落ちてくるさまをあらわしたもので,いわば未来への警告である。カネの話がタブーとなったのも,この舞いとおなじようなものとはいえないだろうか?

私は,カネというのは苦渋のすえにみちびきだした妥協点であると思う。人間の持つ光と闇,崇高さと邪悪さが妥協した点だ。石斧で殺し合うのはこりごりだが,みずからの富を見ず知らずの同種にわけあたえられるほどの慈悲も,残念ながらもちあわせていない。

カネの流れをおしすすめる現代社会の様子は,性に例えるなら,「どうせ人間は性のまじわりがなければ子孫を残せないんだから,あらゆる障壁なんてとりはらってしまえ」といっているようにみえる。

だれもが全裸で歩き,異性または同性を誘惑し,街のいたるところでだれかれ問わずまじわりをもち,ときには常軌を逸した性嗜好をあらわにする。駅だろうが書店だろうが,あちこちにろうや糞便が塗りたくられている──性でたとえれば,いかに異常であるかが分かるだろう。しかしこれがカネであれば?

あらゆるものに値段がついていることは,あらゆるものに糞便が塗りたくられているのとおなじくらい,異常なことである。カネは性とおなじく,制御が不十分なら,人間性を失わせる

みんなの「悪魔的精神が」支配権を持つ

Web3.0では,GoogleやAmazonなどの巨大IT企業に代わって,一人ひとりのうちにひそむ悪魔的精神がウェブを支配する。早い話が,小中高校でのいじめの構造をそのままウェブに持ち込むようなものだ。

脳というウルトラスーパーコンピューターをフル活用して,だれも信用できないなかで,(見せかけの)平穏をたもつ。現代のいじめというのは,思えば高度な情報技術である。

だれを信用する必要もなく,秩序を維持できる。まさにWeb3.0そのものだ。Web3.0は,まわりがみな敵となったデスゲームを想定している。そして,社会全体をデスゲーム化させてしまう危険もはらんでいる。

だれかを信頼する必要などなく,カネさえ払えば,旧来の概念で言うところのサーバーを使うことができる。提供者にしても,利用者を信頼することなくみずからの資源を貸し出すことができる。それがどのように使われるかは技術的に知ることはできないし,どのように使われたとしても提供者にはなんら影響を及ぼさないからだ。

自分のふところさえうるおえば,あとはどうにでもなれ。だれも信じられない。みんなが敵だ──そういった思いで,ウェブは「問題なく」動作するようになる。

Web2.0を北朝鮮をはじめとする独裁国家にたとえれば,Web3.0は殺人ロボットが徘徊する恐怖の館になる。

Web1.0は滅びず

だが,Web1.0のともしびが消えることはないだろう。Web3.0が世界標準となったディストピアでは,インターネットにつなぐのもサイトを公開するのも,Web3.0になってしまうかもしれない。

それでも,Web1.0の支持者どうしが回線をつなぎ,ときにはアマチュア無線のパケット通信などを使って,Web1.0は小規模ながら残されるはずだ。ちょうど,『華氏451度』で本が完全に消えることがなかったように。