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この作品は小説です。実在の人物や団体とは関係ありません。本作品は、あなたまたはあなたの属する組織にとって、不穏当または不快である可能性があります。ブログ記事などと比べて非常に文字数が多く、また、あつかっている内容も創作上のものであるという特性上、多様性や社会情勢への配慮がゆきとどかない場合があることをご了承ください。きわめて不穏当または不快に感じられた場合は、著者の公開している連絡先にご指摘ください。
作中では不登校に触れています。執筆時点の社会における価値観を反映していますが、実際のところ現代のわが国の教育は重大な瑕疵をいくつもかかえており、適応できない人を苦しめている現状があります。したがって不登校は異常なことではありません。不登校の方を異常視したり、差別したりする意図はありません。
主人公がCoVID−19に罹患する場面がありますが、これは医学の専門家に意見を求めておらず、医学的に不正確である可能性があります。この作品をCoVID−19に関する判断に使用しないでください。
私は一年前、十二年間勤めた言語省を退いた。
言語は文明の礎である――ならば言語省は、文明をどうしようとしているのだろうか。
言語系の教科が高得点だったことで得意になっていたのもあるが、私はそのころから言語が好きでたまらなかった。とうぜん将来は、言語を扱う職に就きたいと考えていた。
それまで私は、言語省というものを知らなかった。言語省が創設されたのはその前年の二千二十三年で、インターンシップに参加したときは、つくられてから半年しか経っていなかった。
既存の辞書をつくっている出版社などが反発することは予想できたが、そういったことを聞いた覚えがなかった。そこで私は、インターネットを使って調べてみることにした。
それでわかったことなのだが、どうやら言語省は、出版社に補償金を出したり、辞書の担当者に公務員資格を与えて雇ったりしていたらしいのだ。お金に困るわけでもなければ、辞書編集の仕事が奪われるわけでもないので、反発する理由など見あたらないではないか。当然、反発の話も聞かないわけである。
車の免許を取り、友人とドライブにも行った。出版社のインターンシップにも参加し、校正や翻訳のアルバイトもした。
そのかたわら、空いた時間には言語省に就職するための勉強を欠かさなかった。公務員試験に合格し、すべては順調に思えた。
これはうわさで聞いた話だが、私の先輩は暴力団の事務所から書類を盗もうとし、そのまま行方不明になったという。
どうも、このレイアウトではしっくりこないのだ。しばらく画面を見つめながら頭を悩ませていたところ、よさそうなアイデアが浮かんだ。
しかし、突如響いた銃声が私の名案をかき消した。車は猛スピードで発進し、荒い運転でその場から遠ざかった。速度計の針は時速百キロを越えていた。たしか特別な標識がない限り、自動車の速度制限は時速五十キロだったはずだから、間違いなく道路交通法に違反することになる。
これで警察に捕まったら出版社の信用が落ちるんだろうな、などと考えていたら、とつぜん急ブレーキがかかった。フロントガラスのすぐ向こうには、ホテルの入口があった。コンマ一秒でも遅ければ通行人の命を奪っていたかもしれないし、そうでなくてもこの豪華なホテルから多額の賠償を求められることは確実だった。
そのとき私は休みをもらっていて、会社――といっても当時は車なのだが――にはいなかった。
それで電話をかけたのだが、話し中でつながらないのだ。私はしばらく待ってみることにして、十六時頃にインターネット・バンキングを覗いた。それでも入金がないので再び電話をかけたら、こんどは無事につながった。
電話の相手は、経理の担当者だった。その人は電話に出るなり、こう言い放った。
「ああ、久下沼さん? お給料の件ですよね。あの、申し上げにくいんですけれど、トラブルがあって、会社の口座の残高がゼロになったんです。すみませんが、今は払えません。その対処で忙しいので、もう切ります」
私がなにか言おうとする間に、電話は切れてしまった。口座の残高がゼロになった?
総合情報誌の出版社が、計画もなしに金を浪費したとでもいうのか?
この逆境にもかかわらず、次月号は予定通り発刊された。
記者となった私は、闇カジノや麻薬取引などの記事を書くため、東京を訪れていた。東京というのは図太い街だ、といつも思う。新型コロナウイルスが襲ってきたときも、ついに首都の座を明け渡すことはなかった。暴力団や薬物の売人がいかに暗躍しようとも、表の街はそれに屈することなく、けがれを拒み続けている。
富と希望と自信にあふれた大きくて強いこの街は、苦しみのうめき声をしばしば聞き逃してしまうのだ。ホームレスもいれば、いじめや借金に苦しめられる人もいる。街を埋め尽くす、天にも届きそうなほど高いビルは、彼らを見下すことさえしない。ひたすら無関心を徹底している。泣こうがわめこうが、地団太を踏もうが、巨大な都市は目配せすらしない。
この街の誰かが今日の寝床や明日の食べ物に困ろうとも、街じゅうから聞こえる無言の励ましが皮肉にしか聞こえなくても、死後の世界にしか希望を見いだせなくても――それが何だというのだ?
地方の街や集落が断末魔の叫びをあげても、東京という街はそれをすまし顔で聞くことができるのだ。
「あなたは、なぜ言語省を志望されたのですか?」という定番の質問からはじまり、「言語への情熱を表すエピソードを教えてください」、「あなたが一から言語をつくれるとしたら、なにを重視してつくりますか?」などの答えに困るような質問が投げかけられる。
今回、私は新卒ではない。出版社での仕事についてもあれこれ聞かれるのだ。
そう面接官が尋ねたとき、私は自信をもって、こう答えたのである。
「情報を扱う仕事は、重い責任が伴います。けっして生半可な気持ちではいけない、命がけで、いや、魂の尊厳をもかけて事にあたらなければならない、ということです」
面接官は手元の帳面に何かを書き記すと、笑みをうかべて小さくうなづいた。
これで合格したぞ、と私は思った。しかし皮肉なことに、言語省の体制を保つためであれば、この答えをもって私を不合格とすべきだったのだ。
会場に着いて指定された部屋の扉を開けると、温厚そうな人がほほえみを浮かべて立っていた。
「久下沼陽向さんですね。わたくし、面接を担当させていただく、言語省の田島と申します」
「あ、はい。久下沼陽向です・・・じゃなかった、久下沼陽向と申します」
「そんなに緊張なさらず。どうぞおかけください。コーヒーでも飲みながら、ゆっくりお話しましょう」
田島さんは私を、部屋の中央にある大きな応接机に案内した。私がソファーに腰掛けると、田島さんはコーヒーを一口飲み、質問をはじめた。
「まずは、あなたの生い立ちについて話していただけますか?」
生い立ち、か。私は目を軽く閉じて、脳内から過去の記憶を引っ張り出そうとした。しかし逆に、私の意識が過去へと吸い込まれていったようだった。出版社時代から、大学、高校、中学校のときの記憶が、まるで特急列車の窓から見える景色のように通り過ぎていった。幼児のころにたどりついたとき、ようやく私は口を開いた。
幼稚園のころは、とてもやんちゃな子だった。私の通っていた幼稚園には、お泊まり会というものがあった。場所は幼稚園なのか、それとも外部の宿舎なのかは忘れたが、一泊して催し物に参加するのだ。小中学校でいうところの修学旅行のようなものかもしれない。
幼稚園では、仲のよかった子がいた。その子の名は忘れてしまったが、よく一緒に遊んでいたものだ。
さて、お泊まり会の翌朝、私はその子より早く起きた。そのとき私は、ちょっとしたいたずらで驚かせてやろうと考えた。
その子は、鬼をとても怖がっていた。教諭が、「鬼さんが来るよ」などと脅そうものなら、震え上がり大声で泣き出して、そのまま一時間は泣きやまなかった。
そこで私はその子の耳元に口を近づけ、ひそひそ声でこう言った。
「鬼だぞー。おまえは悪い子だから、食べてやるぞ」
次の瞬間、逆に私が驚かされることになった。その子が耳をつんざくほどの大声で泣き出したのだ。その子は駆けつけた教諭に、鬼はもう帰ったかと泣きながら尋ねた。
「大丈夫。鬼さんはもう帰ったよ」
教諭はそうなだめたが、その子は泣きやまなかった。私が驚かそうと鬼のまねをしたことを、他の子が告げ口でもしたのだろうか。その子は、陽向のいじわる、もう陽向とはぜったいに遊ばない、と叫んだ。そして、それきり二度と口をきいてくれなかった。
なんであれ新しいものがつくられると、それに伴って問題が生じるものである。むろんスマートフォンも例外ではなかった。当時はメッセージアプリを使ったトラブルが増加していたのだ。小学校では「情報モラル講演会」というものがあり、インターネットやスマートフォンがいかに恐ろしいものか、ということを長々と語られたものである。
そのとき私は、どうしても腑に落ちないものを感じた。情報技術の発展というのは、よほどのことがないかぎり元に戻ることはないだろう。一度便利さを知ってしまった人は、それを手放すことなどできない。
しかし当時の教育者の物言いは、地道な努力を続ければいつかは「スマホ禍」は収束するだろう、と思っているようにしかみえなかったのである。なんとかスマートフォンのまん延をくい止めて、できることならスマートフォンのなかった時代に戻してしまおう――そんな考えを、私は言葉の端々から垣間見たのだ。
学校が休みになり、テレビではコロナ、コロナと連呼された。そのうちコロナ疲れとかコロナうつとか、コロナ太りなどという言葉も聞かれるようになったが、そのときの私は、おおむね精神を健康な状態に保っていたと思う。学校を休めることがうれしかっただけでなく、不謹慎かもしれないが、私はこの新しいはやり病に、未知の冒険に対するようなわくわくした気持ちを抱いていたのだ。
やがて学校が再開されても、このパンデミックはいっこうにおさまる気配はなかった。修学旅行や遠足などの行事を楽しみにしていたのだが、慣れないマスクをつけた息苦しさのなかで聞いたのは「中止」という言葉だった。それが半年も続けば、誰であれ恐怖と不自由に心がむしばまれるものである。私はこの五年間をとおして、不登校になった児童を見たことがなかった。かぜでも引く子がいない限り、いつも教室は満員だった。しかしその年の十月ころには、数名の同級生が教室から姿を消していた。
どこにも行けない、誰にも会えない。薄いガラス窓の向こうでは、死神が獲物を求めて歩き回っている――。言い過ぎかもしれないが、当時の人々はおおむねこのような感覚をいだいていた。
そのような人々にとって、疫病禍のなかでも平気で遠出したりマスクをつけずに出歩いたりする人は、死神の腕に飛び込んでいく愚か者どころではなかった。死神におのれを売り渡し、死神の一部となって「我々」を墓場に引きずり込む反逆者にしか見えなかったのである。
当時高校生だったいとこは、通信制に行けばよかったといっていた。合格すればひと息つける、友だちと遊べる。そう思って必死に勉強したのだが、なんたるざまだ。高校受験が「終息」したら、遊ぶことも許されず、大学受験に向けてひたすら勉強、勉強である。しかも今度はウイルスという死神が、すぐそばで勉強の進み具合を見つめているのだ。
青春の三年間は見事に失われてしまった。その人はそういって、年下のいとこである私に不満を漏らしていた。卒業文集に載せるため「失われた青春を求めて」という題で作文を書いたら、三人が同じ題で投稿しようとしていたという笑えない小話まである。
しかしこれは、いま言語省が進めている凶行の事実を裏付けるのに欠かせないのだ。どうかご理解いただきたい。
検査の翌日は奇妙なほど息苦しく、強いだるさを感じた。もしかしてCoVID−19かもしれない、もしそうだったらどうしよう。他人に感染させたかもしれない、自分はもう死ぬかもしれない、そうでなくても社会から抹殺されることは確実だ――恐怖にかられたとき、家の電話が鳴った。
おそらく検査の結果が出たのだろう。それにしても妙に早い。私は試験の結果でも聞くかのような緊張を感じながら、受話器を取った。
結果は陽性だった。記憶を辿ると、思い当たることがあった。四日ほど前に友人とカラオケに行っていたのだ――しかも、マスクを外して。
病院からの電話を切った後、熱い怒りがゆっくりと、そして確実に沸き上がってきた。あの人が私に感染させた。マスクを外そうといったのはそっちじゃないか。私は携帯電話を強くにぎり、電話帳からその友人の名を探した。
プルルルル、という発信音が私を落ち着かせたが、その効果は長続きしなかった。人殺し、人類の敵め。電話に出たらなんと罵倒してやろうか。
しかし携帯電話から聞こえてきたのは、弱った病人の声だった。そのとき私は、これは病気なのだということを思い出した。CoVID−19は感染症なのだ。これが私の怒りを、こんどは永続的に鎮めた。CoVID−19は天然痘や狂犬病と同じく、ウイルス性の感染症である。私は、狂った犬がまさに飛びかからんとしているときとはまったく違う恐怖を、CoVID−19に対して抱いていたことに気づいたのだった。
電話を終えると、強いだるさが一気に私を襲い、携帯電話を机に置くことさえできなかった。なにを話したのかは忘れてしまったが、感情にまかせて罵詈雑言を吐かなかったことだけは確実である。
中学校の入学祝いに買ってもらったこの携帯電話は、このとき大きな活躍をみせた。このすばらしい携帯電話を使って、学級担任の先生や保健所の担当者と何度も言葉を交わしたのだ。担任の杉山先生は、電話越しに励ましの言葉をかけてくれた。保健所の担当者は落ち着いた声で、療養について詳しく、そしてわかりやすく説明してくれた。
保健所からの許可がおりて学校に戻ったとき、同級生は私のことを心配してくれた。どんな病気なの、と聞かれたとき、私はこう答えた。
「おそろしい病気だよ」
もしかしてコロナなのか、と同級生が言って、私は血の気が引くのを感じた。しかし他の同級生が、ミュンヒハウゼン症候群じゃないかと言ってくれたことで、ずいぶん安心したものだ。しかし、あとで調べてみるとミュンヒハウゼン症候群というのは、心配や同情を求めて、自らの体を傷つけ病ませるものだという。さらに詳しく調べると、精神疾患として認められていることがわかった。
中学生という年代は、得てして深く考えずに行動しがちである。その軽率さゆえに罪や失敗を犯すことも少なくはないだろう。その同級生は、メッセージアプリのグループ機能を使って、学級の全員に「久下沼はミュンヒハウゼン症候群らしいよww」と送ってしまったのだ。
インターネットなどの文字コミュニケーション場面に於いて、笑っていることを表すため、おもに文末に付け加えるもの。インターネット・スラングの一。強調するために複数並べて使う場合もある。
先生はこれを重くみたのか、翌日か翌々日に全校集会を開き、インターネット上での失言やトラブルに関して生徒らに注意をうながした。そして生徒指導部の先生までもが壇上に上がって、これからはメッセージアプリのグループ機能を使ってはならない、と告げたのだ。
私は、県内でも有名な進学校に進もうと考え、受験勉強をはじめた。五月の模試ではB判定で、安全圏まで上がるにはさらなる努力を要した。
夏休み前の七月に行われた期末考査では四百六十点台、八月の模試では四百七十八点を記録した。しかしそれ以上点数が伸びることはなかった。
もう、志望校合格は無理だ。そう思ったのは、第四回実力テストの点数を見たときだった。
三百九十九点。ついに四百点を下回ったのだ。高い学歴、きらきらした青春、それらのすべてが手に届かない夢の世界に飛び去っていった。
ときは十一月。たとえ前期試験を受けるにしても、願書を出す一月まではまだ時間があった。それが、第一志望に向かって立ち上がるか、あきらめて他の高校に行くかを迷わせた。
模試では、当初の志望校はおろか、一覧表から無作為に選んだ三校もすべてE判定だった。点数は三百七十七点。十二月の第五回実力テストで三百六十五点を取ったあと、進学先を決めないまま冬休みに入ってしまった。
保護者はいるかと尋ねられ、両親のいずれも仕事に行っています、と答えた。用件はこうだった――進路のことについて、保護者を交えて話がしたい。
「携帯にかけたけどつながらなかったから、心配したんだよ」
杉山先生のその言葉で、私は携帯電話を壊してしまったことを思い出した。
実力テストの結果をふまえて、私は現在の学力でも入学できる私立高校を受験することにした。
私は、中学校一年の終わりころにCoVID−19ワクチンを接種していた。もしかしたら、ワクチンの副反応とやらかもしれない。
それでも私は、ネットサーフィンを続けていた。そこでたどり着いたのは、陰謀論系のウェブサイトだった。
当時は第五世代移動通信システム、すなわち5Gが商用化されてから数年しか経っていなかった。そこには、「5Gの電磁波で脳に深刻な悪影響があらわれる可能性があります」と書いてあったのだ。
私が持っていた携帯電話も、たしか5Gに対応していた気がする。これは5Gの電磁波による影響なのか?
ウイルス、ワクチン、電磁波、そのいずれが原因であっても、私の身に起きていることは不可逆なものに思えた。学年上位の優等生だった私が、脳に不可逆かつ進行性の病をかかえるとは!
はげしいいらだちと絶望感をおぼえたが、それらをどこにぶつければよいかわからなかった。私はコンピュータの横にあるプリンターを持ち上げると、窓から思い切り投げ飛ばした。それから一秒も経たないうちに、ガラスの割れる音が聞こえた。
あとで知ったのだが、自動車のフロントガラスには、特別に割れにくい構造が採られている。だからプリンターが二階から落ちてきても、ガラスは散乱することはなかったのである。
さて、私は一瞬凍りついたように硬直し、それから冷静さを取り戻した。これは多額の賠償金を求められることになるだろう。車のガラスを修理するのにいくらかかるかは知らなかったが、とにかく高くつきそうだということだけはわかった。しかもその車をよく見て、私の頬を冷や汗が流れた。
その車は真っ黒に塗られていて光沢があり、広い駐車場のなかで高級さを誇示していた。まさしく、どこから見ても高級車にしか見えなかったのである。
高級車のガラスを割ってしまった!高級車と聞いて私が想起したのは、暴力団だった。家に怖い人がたくさんやってきて、脅されたり、どこかへ連れて行かれたりするのではないだろうか。
そのとき、信じられないことに運転席の扉が開き、車から人が降りたのである。私はとっさに、窓から見られないよう身をかがめた。これでひとまず見つからないだろう。でも、プリンターがぶつかったときに車内にいたとすれば、それがどこから飛んできたのか見ているはずである。いや、自分に向かってなにかがが飛んでくるとすれば、反射的に目をつむるのではないか。
「もしもし、聞こえますか?」
窓の外から声が聞こえた。
「はい。割られたんです。保険? 入っていますけど、なにか? ええ。 そうです。心当たりはありませんね。ええ。怪我はしていません」
窓から目を出して下を見ると、さきの人は携帯電話で話しているようだった。どうやら、プリンターを投げたのが私だと言うことに気づかなかったようだった。
私の親が仕事を終えて帰ってきたとき、その様子を見たのである。これはうちのプリンターだ。どうしてこんなことになった?
自分の家のプリンターが、飛んできて岩崎氏の車のフロントガラスを割った。そのとき家には、十五歳の子がいたはずだ――自分の子がプリンターを投げたか、あるいはもっとおそろしいことが起きたか、そのいずれかであることは間違いなかった。私はプリンターを投げたことを、両親に打ち明けなければならなかった。
「いえいえ、問題ないですよ。私だって子どもの頃は、とんでもないまねをしたものですから。お金のことは心配しなくていいです。保険が下りましたので。それに、あのガラスはちょうど取り替えようと思っていたところだったんです――もっと割れにくい、特別なガラスに」
携帯電話がないと、友人と連絡先を交換することもできない。会って話せばいいと思われるかもしれないが、同級生が聞き耳を立てている以上、教室や通学路では込み入った話はしづらいのだ。
高校ではすでにこの時代から、書類作りや表計算、プログラミングなどの宿題が出されていた。課題の指示を印刷した小さな紙が、記録装置とともにビニール製の袋に入れられて渡されるのだ。私はそれを両親に見せて、宿題のためにコンピュータを使わせてほしいと頼んだ。すると親は、十八時過ぎだというのに先生に電話をかけ、ほんとうにそんな宿題を出したのかを確かめようとした。
放課後のコンピュータ室には、さまざまな困難を抱えた生徒が残されていた。管理上の都合で、放課後に生徒が居残れるのはコンピュータ室だけだったのだ。
学校側は希望する生徒に対し、夕食を提供していた。夕食といっても、精密機器が集まる場所でふるまわれるため、かすや汁が出にくいものに限られていた。
貧しくてコンピュータを手に入れられない生徒は、コンピュータ室で宿題に取り組み、そして夕食も食べていたのである。虐待や暴力から逃れるためにコンピュータ室を使う生徒もいたし、薄いカーテンで区切られた空間では先生が進路や人間関係の相談を受けていた。
宿題を終えたあとは、二人でよく喫茶店に行ったものだ。コーヒーを飲みながら、日常のたわいもないことを話していたのである。
春の暖かな陽気が街をおおっていた。私はいつものように、本田先輩と喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
そのとき本田先輩は、一枚の紙を取り出して、私に見せた。それは、言語省のインターンシップ生を募るちらしであった。
時給千円
別途交通費支給
応募資格:長野県に住所があるか、長野県内の高等学校に通学している、令和八年四月時点で高校三年生の方。
私が言語省のインターンシップに参加したいと言うと、小黒先生は、翌朝の七時三十分に国英準備室に来るように言った。国英準備室とは、国語科と英語科の先生が授業の準備をしたり、生徒に成績をつけたりする部屋である。
私が校門の前で待っていると、国語科の竹前先生が歩いてきた。私が軽く会釈すると、竹前先生は、「言語省のインターンに行きたいんだね」と言った。
国英準備室の前で十分ほど待たされたあと、竹前先生がドアを開け、いすに座るよううながした。
竹前先生は募集のちらしを持ってきて、印刷された文を指さした。
血の気が引いた。私はもう一度、その文を読み返した。
「まだ二年生だから、本来は参加できないことになっているんだけれど、もしかしたら参加できる可能性もあるから、言語省に問い合わせてみる」
「本当にいいんですか?
ありがとうございます」
特別に参加させてもらえるよう、取りはからってくれるというのである。指定された時刻より四十五分も早く来たことが、志の強さのあらわれとみなされたのかもしれない。
国英準備室に入ると、竹前先生がいくつかの紙を持って立っていた。竹前先生はいすに腰掛けるよう指示し、私の目の前に書類を置いた。
[学校名]
[生年月日]
[住所]
記入を終えると、つぎに「誓約事項」というものが印刷されていた。私はそれに、さらりと目を通した。
・本プログラムで扱う公文書は本物であり、社会に重大な影響をおよぼすことを理解しています。
・公文書の内容をはじめとした、本プログラムで知り得た情報を外部(他のインターンシップ生を含む)にもらしたり、SNSやブログなどに投稿したりしません。
・本プログラムで扱う文書を、個人的な動機で改ざん、偽造、破棄などはしません。
・誓約事項に違反したり、粗暴行為やハラスメント等によって言語省の業務に支障をきたしたり、その他言語省職員または当局の指示に従わなかった場合は、当局によるいかなる制裁をも甘んじて受け入れます。
まず、たとえ優秀な学生だといえども、十七か十八歳の高校生に公文書など扱わせてもよいのだろうか、ということである。
つぎに、「本プログラムで扱う文書を、個人的な動機で改ざん、偽造、破棄などはしません」というところだ。「個人的でない動機」すなわち業務上の指示により、公文書を改ざんしたり偽造したりするということなのだろうか。
そして極めつけは、「当局によるいかなる制裁をも甘んじて受け入れます」の一文である。
「いかなる制裁も」ということだから、どのような制裁かはわからない。一生刑務所から出られないかもしれないし、公文書に虚偽の前科が書き連ねられるかもしれないのだ。
ここで、再び官製国語辞典にご登場いただきたい。
仕方のないものとして受け入れること。
でも、もう申し込んでしまったのだから、いまさら取り消すことなどできまい。なんといったって、三年生が対象のところを、二年生の自分が参加できるよう取りはからってくれたのだ。
結局その夜は一睡もすることなく、私は松本駅に向かった。
駅前に「言語省」と書かれた看板を持った職員が立っていて、その横には小さなバンがあった。私はそれに乗り込み、他の参加者と挨拶を交わした。
松本駅から二十分ほど走ると、バンは雑居ビルに挟まれた小さな駐車場に停まった。そこから狭い路地を十分ほど歩いたところで、私たちを引率してきた職員が古いビルを指してこう言った。
「みなさん、こちらが言語省の長野支所です」
ここが長野支所――あの言語省の?
公文書を扱う施設は、目立たないほうがいいのだろうか。しかも、松本にあるのに長野支所と名付けられているのだ。
職員の指示に従ってビルの中に入ると、外見とは打って変わって真新しい壁と床が光沢をかがやかせていた。私たちは階段を上って会議室に向かい、仕事内容の説明を受けた。
たとえば「青色の万年筆と時計」という場合、「『青色の万年筆』と『青色の時計』」なのか、「『青色の万年筆』と『(色を指定しない)時計』」なのかは、かつてはあいまいであった。
「言語省文法細則 第二版」はこれを、「『青色の万年筆』と『(色を指定しない)時計』」を意味すると定めた。なお、「『青色の万年筆』と『青色の時計』」を意味させたいときは、「青色の万年筆や時計」ということになっている。
私はその試験をまっさきに通過した人の一人だった。そして実習に進んだのだが、その内容は文書の修正であった。
現在の言語省では人工知能によって、公文書を正書法および文法細則に適合するよう修正している。しかし当時は、おおまかな修正こそ電算処理で済ませられたものの、細かな文法上の修正は人間の仕事とされていた。
実のところ、このソフトでは編集するにはクリックではなく右クリックで、しかも押す長さは半秒から一秒半と決められている――これを間違えると違う操作になってしまう。
なんとか「公文書ライター」の使い方を覚え、見本の文書を修正できるようになったところで、こんどは本物の公文書を修正することになった。
言語省による文法チェックを受けることは一部の例外を除いて必ずしも必要ではなかったものの、行政機関の多くはみずから公文書を送りつけて、文法チェックを依頼していた。
私が最初に担当したのは、長野市の広報誌「広報ながの」である。この広報誌には、四十件を超える文法誤りが含まれていた。私が過失で見逃したものも含めれば、もっと多かったかもしれない。
茅野市の転入届の書式や松本市役所窓口係員の心得といった公文書を修正するうち、私の心にひとつの疑念が芽生えた。公務や市民生活に影響を及ぼす公文書を、文法の修正のみとはいえ言語省にゆだねてしまってよいのか、という疑念だった。
最上階は九階であった。長野支所の常勤職員はそこに滞在しており、インターンシップ生はこの常勤職員と同居することになっていた。
部屋には二段ベッドが所狭しと並べられ、常勤職員の荷物が雑然と置かれていた。部屋の奥にはコンピュータがあり、職員証を差し込んで使うことになっている。この職員証というのはインターンシップ生に対しても発行される。
コンピュータは言語省のネットワークにつながっており、自分の勤怠や給与を確認したり、食事を注文したりすることができた。
教科書といっても、まだ文部科学省の検定を通っていないものだ。正書法や文法に適合していないと検定に受からないので、言語省がその審査――そして、必要とあれば修正も――を行うのである。全国の子どもや学生より前に最新の教科書を読めるというのが、言語省の職員らに優越感を抱かせたのか。あるいは、優越感を呼び起こしたものは教科書を先に読めることではなく、正書法と文法をしっかりとわきまえていることだったのかもしれない。なぜなら職員らは仕事中でもないのに、ここが間違っている、あそこが間違っていると蛍光ペンを片手に楽しそうに言っていたからである。もちろんその翌日には真っ先にコンピュータの前に座り、教科書の編集者にあざけりの念を持ちながら、「公文書ライター」で該当の箇所を修正したに違いない。
しかし生い立ちを述べているうちに、三十分くらいが過ぎていたことは確実である。そのあいだ面接官の田島さんは、退屈そうなそぶりを見せることなく、私の口から話たれた言葉をかいつまんで手帳に書き記していた。
採用面接の担当者でさえ、私のつまらない昔話に耳を傾けてくれるとは。言語省は高尚な人格の持ち主が集うところなのだ!
私は完全に、言語省に魅了されてしまった。
面接会場を出た頃にはすでに十七時を過ぎていて、私は那覇のホテルに泊まることにした。客室の扉を開けると安堵からか眠気が起こり、私は寝台に身体を横たえた。
社長は名古屋へ来ることを指示した。名古屋への航空便があるかわからなかったし、搭乗手続きの手間を考えると、鉄路にて向かったほうがいいと考えた。私は東京駅に行き、新幹線の自由席券を買った――料金が高いから、滅多に指定席には乗らないのだ――。
新幹線の自由席は混んでいた。私が乗ると同時に扉が閉まり、空席を探しているうちに列車は動き出した。
マナーモードに設定し忘れた私の携帯電話が、最大音量で着信音を響かせた。たちまち車両のいたるところから、非難のまなざしが私に向けられた。私は追い立てられるようにしてデッキに走り、かかってきた電話に応答した。
そう聞かれて、私は答えに困った。私の感覚によれば合格は確かなものだったが、これまで雇ってくれた恩義というものがある以上、転職先が決まりそうなことを喜んで告げるのは無礼ではなかろうか。しかし、退職に伴う事務処理や引継ぎを考えると、これは伝えるべきだろう。
「たぶん、合格したかと」
私はあえて、暗く重々しい声で言った。
自宅やカフェ、コワーキングスペースなどで仕事をする「ノマドワーク」は当時、かなり一般的になっていた。事務などの職のうち、機密情報に関わらないものは、すでにほとんどがノマドワークをしていた。
いまや肉体労働者さえも旅のなかで働いているのだ。古くなった旅館を修理して宿泊代金をまるまる割り引いてもらったり、苦労して什器を運び入れようとしている事務員を手伝って報酬を得たりすることが、すでに普通の光景となっていた。
むろん私もご多分にもれず、ノマドワークという働き方を選んだ。言語省というのは秘密の多い職場ではあるが、正書法は公に知れ渡るべきものであり、間違っても秘密ではない。
君達は、過去の良い文化だけを受け継ぎ、決して過去の地獄を将来に受け継いではいけません!
思いやりと友愛の心を持つ事が、イジメ等の問題を解決する鍵となるのです!
なにから指摘すればいいだろうか。まず、「!」を感嘆符というのだが、その感嘆符をつけていいのは文末に限られている。しかも、基準より感嘆符を使いすぎているのだ。十の文あたり最大で一つしかつけてはいけず、あとの九つはすべて「。」(句点)を使わなくてはいけない。
そのほか、「君達」ではなく「君たち」、「イジメ」ではなく「いじめ」、「鍵」ではなく「カギ」と書かなくてはいけない。最後の「鍵」については、「鍵を紛失してしまった」などという文脈では漢字を使ってよいが、「解決するカギとなる」というときにはカタカナにしなければならないのだ。
人権より正書法のほうが、当時の私には重要なことに思えた。
数時間かけて念入りに調べた結果、なんとか二十件までしぼり込めた。あとはこれをわかりやすいプレゼン資料にまとめ、読み上げる原稿を書くだけである。といっても、これがまた労力の求められる作業なのだ。むずかしい正書法をわかりやすく説明しなくてはならないし、むろん資料は正書法にのっとって書かれなくてはならない。
一度プレゼン資料を作ってしまえば、数回は使い回すことができる。資料作りからはしばらく解放されることになるが、その間はほかの仕事が舞い込んでくるのだ。
コンピュータは送られてくる公文書のなかから、辞書にない単語を探しだして印をつけてくれる。私の仕事は、印がつけられた部分を適切な語に置き換えることだった。
その指示を受けたとき、私はかすかながらも疑問を抱かずにはいられなかった――辞書に載っていないが、公務上あるいは記録に残すうえで必要な概念については、どうすればよいのか?
まあ、そんな概念を見つけたら上司に訊けばいい話だ。実のところ、公文書で使われている言葉はほとんど辞書に載っているし、辞書にない語などというのは、適切な言い換えがいくつも見つかるようなものばかりだった。
むろんこれも、あらゆる公文書が言語省に送られるわけではない。すべての公文書のうち十分の一にも満たないだろう。出版物やウェブサイトなどで一般に公開されるものはすべて言語省を経ることになっていたが、行政機関の中だけで使われるものにかんしては、その必要などなかった。しかし行政機関は十年前と同じく、修正の必要のない公文書までもを言語省に差し出してくるのだ。
たぶん、民間企業や研究期間から引き抜いてきた辞書編集者や言語学者などを、ことにあたらせたのだろう。
私は、コンピュータシステムを扱う会社に、日本語で書かれたウェブサイトを収集する処理を依頼したことがある。商談などはじめての経験だったが、取引はすんなりと成立した。ブログや個人サイトを運営している人が少なくなっているとはいえ、過去一年間に公開されたものだけでも、とんでもない量になるだろう。これを分析して辞書にするというのだから、ほんとうにすごい能力を持った人を集めたものだ。
むろん、情報源はインターネットだけではない。国立国会図書館に保管されているさまざまな資料も――過去二十年以内のものに限るのだが――、片っ端から分析されるのだ。こうして十分な語が集められると、言語省国語辞典は大衆に広く知らせられた。言語省は新聞や放送、インターネットなどに広告を出し、ご自慢の国語辞典を誰もが知るものにした。
こうした状況は新聞でも取り上げられていたし、日常生活のなかで実感することも多かった。
自分の勤め先の「製品」ながら、ここまで普及しているとは知らなかった。だが、私はそれにいささかの不安を覚えずにはいられなかった。
「そんな言葉、辞書にないじゃないか。おまえはなにを言いたいんだね?」こう言われてしまえば、反論のしようがない。
これはまだ言語省内の話だ。庁舎の門から一歩踏み出せば、さらにおそろしい現実を目にすることになるだろう。すなわち、この国のあらゆる人や機関が、ほしいままに書き換えられた辞書に基づいて聞き、話し、読み、書き、考え、そして行動することになる。
政治に目を向ければ、もっと陰惨な情景がいやでも眼球に飛びかかってくる。憲法をはじめとして、この国のあらゆる法典や規則は日本語によって書かれている。日本語を変えることさえできれば、最高法規であるはずの憲法など、いくらでもねじ曲げることができるのだ。おそろしいかぎりではあるまいか。
いくらなんでも、それは考えすぎというものだろう。そんなことはありえない。私は自らを、そう信じ込ませた。さきに述べたことは、じっさい起きておらず、まだ私の想像力の産物に過ぎなかったのだ。
むろん言語省も、地方分散の例外とはならなかった。言語省の本部が置かれたのは、長野市だった。
そこで私は、学生向けの催しを担うことになった。
言語省は、高校や大学を通してインターンシップを募ったり、さまざまな催しを行うことで若者の関心を引きつけていた。その多くが「言語をつくるワークショップ」だとか、「古典文学を現代語に訳してみよう」だとかいう飛び抜けたものだったので、個性的なものにあこがれる当時の若者の心をつかんだのである。
さて、私たちは中学生に言語省の魅力を伝え、言語省で働きたいと思わせなければならなかった。これが職務上の命令である。
とはいっても、どうやったら現代の若者に、言語省の魅力とやらを伝えられるというのだろうか。メンバーには心理学などに詳しい人はいなかったし、どうすればいいのか皆目わからなかった。そんなときはとりあえず会議を開くというのが、決まりきったやり方だった。「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあるように、みんなで集まればなにかしらの結果が生まれるのではないか。少なくとも、事がうまく運ばれなかったときには、責任を分け合って一人当たりの負い分を少なくすることができるので、みんなにとってラクなのだ。こう考えていたのは、なにも言語省の職員だけではなかったかもしれない。
私は業務用のラップトップコンピュータを机に置き、「資料共有システム」と「公務用メモ」というソフトウエアを起動した。
「資料共有システム」は、会議資料を共有するためのソフトウエアである。これを使えば紙を無駄にしなくて済むし、配られた資料がどこかへ漏れ出すこともない。
「公務用メモ」は一見すると、ちょっと格好悪い見た目のメモソフトに過ぎない。しかしこのソフトウエアで取ったメモは、打ち込んだそばからコンプライアンス課に送られるのである。そして、不正行為や嫌がらせのにおいがないか、人工知能がメモを隅から隅まで嗅ぎまわすのだ。
会議室を見渡すと、ほとんどの参加者がラップトップコンピュータを机の上に広げていた。私は「公務用メモ」の画面をクリックして、日付と会議名を打ち込んだ。メモを取ったって結局読み返さないのにな、という思いが頭の片隅をよぎった。機密保護だとかいう理由で、メモを持ち出せないようになっているのだ。仕事中は忙しくて見られないし、いったん庁舎を離れてしまえばメモにはアクセスできない。紙でメモをとることが許されていたならば、青いこぢんまりとした市街地循環バスの客席で、弱い室内灯を頼りに要点だけをちらちらと読み返すことができただろう。
「催しの内容について、なにかご提案はありますか?」議長の声だ。考えごとをしていて、会議がはじまったことにすら気づいていなかった。
「はい」先輩職員の湯本さんが手を挙げた。
「では、湯本さん」
「『文学的な表現をしてみよう』というのはどうでしょうか」
文学的なひょうげん、と私は打ち込んだ。湯本さんはすぐれた頭脳を持っている。どんな場合でも、湯本さんが発案したものは大成功に終わるのだ。湯本さんが指導してくれたおかげで、本部に異動してきたばかりの私でも、この仕事に慣れることができたのだ。
「・・・小説家とか、ジャーナリストとか、そうですね、物書きになりたいという子も多いんじゃないかと思うんです。だから、『文学的な表現をしてみよう』っていう内容だと、たくさんの子が集まってくれると思いますし、言語省の魅力も伝えられると思います」
完璧だ――「思います」を繰り返しているところを除いては。私は、尊敬とあこがれのまなざしで湯本さんを見つめた。
「ほかに、ご提案はありますか?」議長が言った。
「はい」挙手したのは岩橋さんだった。実のところ、私は岩橋さんをあまり好きではなかった。
「えっと、提案なんですが、インターネットなどの新しい技術によって、日本語がどう変わっていったかということを・・・」
インターネットが新しい技術だって?
この人の頭は、平成のちょうど真ん中くらいで止まっているんじゃないだろうか。令和二十六年の日本では、インターネットというのは電話や道路と同じくらいありふれたものである。私は、こんな人の案など聞く価値もないと決めつけ、「公務用メモ」の画面を前に、新しい案を考えようとした。そのとき思いついたのが、辞書に関するワークショップだった。私はキーボードを叩いた。
言語省国語辞典・英和・和英辞典を引いてみよう
「はい」私は答えた。
「私の提案は、」コンピュータの画面をちらりと見た。辞書ワークショップ、引いてみよう、だ。
「辞書を引いてみよう、というワークショップはどうでしょうか。言語省国語辞典とか英和辞典とか、使い慣れていない子も多いと思うんです」
「反対です」岩橋さんが言った。
「子どもたちは言語省の辞書に慣れています、小学校の二年生で引き方を教わってますからね」
だからこの人は好きになれないのだ、と私は思った。岩橋さんは私の一挙一動に異を唱える。この前の会議で私が出した案に、唯一反対票を投じたのもこの人なのだ。「人工言語をつくってみよう」という、高校生を対象としたワークショップの案だった――しかしそれは、結果として失敗に終わった。時間内に言語をつくりあげた参加者はおらず、終了後のアンケートでも「おもしろくなかった」と「あまりおもしろくなかった」の合計が五割を超えていたのである。
このいやな感情が生じたのは、岩橋さんが私を非難するから、というだけではなかったと思う。世界が岩橋さんの言うとおりになることにこそ、はなはだしい嫌悪感を覚えたとはいえないだろうか。
会議室に鳴り響いた着信音が、いっそう私を不機嫌にさせた。壁に備え付けられた内線電話機が、着呼を示す表示灯をはげしく点滅させている。
会議室の内線電話は、受話器を取る必要がなかった。一秒後に自動的に応答し、着信音を鳴らしているこのスピーカーから相手の声が聞こえるのだ。
「会議中失礼いたします」聞き覚えのない声だった。
「催しについてなんですが、辞書にかかわるものは、できるだけ避けていただきたいのです」
ほら言ったじゃないか、というような目つきで岩橋さんがこちらを見た。またこの調子だ。この世界は岩橋さんに肩入れしているのだろうか。途中で会議を抜け出すわけにもいかず、私はそのいやな気持ちをかかえたまま仕事をしなければなかった。
その疑問は、バスの揺れとともに大きく膨らんでいった。
二千四十六年の休日のことだった。いつものように千円札を持って古本漁りをしていると、むかし読みたいと思っていた小説を見つけた。「見捨てられた魂」である。作者の名字が私と同じだったので、読んでみたいと思ったのだ。
奥付を見ると、初版が出たのは平成二十九年だと書かれていた。平成二十九年!
平成時代の本なのだ!これを逃すと、もう手に入らないかもしれない。幸いなことに、価格はわずか七百十八円である。もちろん私は、これをレジに持って行かないわけにはいかなかった。
この小説には、「数奇」という言葉が、「彼の友人もまた、数奇な運命に拘束され・・・」といった文脈で使われている。はて、数奇とはどういった意味だろうか?
私は反射的に携帯電話を取り出し、言語省国語辞典で「数奇」を調べた。私が知りたかったことの代わりに表示されたのは、その語が言語省国語辞典に含まれないという事実だった。
この本が間違っているのだろうか――だとしたら、本来はなんという言葉が入るべきだったのだろうか?
降りるべき停留所が近づいていた。もやもやとした不快な感覚をいだきながらも、私は荷物をまとめて降車ボタンを押さなければならなかった。
一時間くらい探したところで、ようやくほこりまみれの電子辞書ケースを見つけた。触感からして、中身は空ではないようだった。
電池が入っていなければいいのだが、と私は思った。液漏れでもしていたら厄介なことになる。私は劣化した保護ケースのファスナーを無理やり開け、色あせた電子辞書を引っ張り出した。電源ボタンを押したが、もちろん起動しない。
電子辞書を裏返して電池入れを開けると、なんと幸運なことだろうか、電池は入っていなかった。電池入れには「単3」という刻印がある。たしかコンビニで売っていたはずだ。
沈みかけた夕日を横目に、私はコンビニエンスストアに向かった。いまではもう乾電池など使う機会がなく、かつては至るところで使われていた単三電池といえども、コンビニエンスストアに売られているかはわからなかった。
電気製品の売場にはモバイルバッテリーやワイヤレス充電器などがところせましと並べられていて、乾電池は単三が隅に一パックだけ置かれていたにすぎなかった。私はそれをレジに持って行った。パッケージは黄ばんでいて、使用期限までは二ヶ月しか残っていなかった。
「これで最後ですよ、この店で乾電池を売るのは」私は名札を見た。「店長」と書いてあった。
「お客様の前に乾電池が売れたのは、もう半年も前のことになります――いまや乾電池なんて、誰も使いませんからね」
店長さんは乾電池のパッケージを読取り機にかざした。
「六百円です」
「Nペイで」私はスマートフォンを取出した。
液晶画面が薄暗く光り、検索窓が現れた。黄ばんだ液晶画面には、横線が何本か入っていた。
私は、経年劣化して押しづらくなったキーボードで、「すうき」と打ち込んだ。
運命のめぐりあわせが悪く、不運なこと。また、運命の変化がはげしいこと。
電子辞書から、キーンという甲高い不快な音が聞こえた。画面は赤と緑の市松模様で埋め尽くされたあと、十も数えないうちに真っ黒になった。何度電源ボタンを押しても反応はなく、いやな臭いのする黒い煙が放たれるのみであった。
認証用のセキュリティキーを差し込み、メールソフトを起動した。そして、「数奇」を入れ忘れたことを指摘するメールを書こうとしたところで、はたと困ってしまった。
誰が、あるいはどの部署が、辞書の編集を担っているのだろうか。責任者が誰なのか、組織系統がどうなっているのか、まったく分からないのだ。
私は、言語省の職員向けウェブサイトを開いた。たしか、ここに組織図と連絡先が載っていたはずである。
組織図そのものはすぐに見つかった。トップに言語大臣がいて、それから各部署に細かく分かれている。私が所属しているのは「言語教育・若年層啓発部」だ。
辞書を編集する部署は、組織図のどこにも見あたらなかった。画面をよく見ると、「詳細を表示」というボタンがある。それをクリックすると、組織の末端までの細かな図が画面を埋め尽くした。
この中から辞書編集の責任者を探し出すのは、さすがに骨が折れる。今日中に片づけなければならない仕事がたくさんあるのだ。編集ミスなら、誰かが気づいて直してくれるだろう。そう思って、私は組織図を閉じた。
このエラー表示は私にとって、鬼の足跡より恐ろしく感じられるのだった。
私は高校時代に、「1984年」という小説を読んだことがある。ジョージ・オーウェル氏という二十世紀の作家が書いたものだ。そこには英語を改造した「ニュースピーク」という言語が登場する。
ニュースピークは、英語から政治的に望ましくない言葉をすべて取り除いたうえで文法を簡略にし、必要最低限度を超えた単語を削ったものである。そして作中の設定では、ニュースピークはまだ完成していない――すなわち、語彙がつぎつぎと減っていく言語なのだ。
自分史のなかにある語句から固有名詞を除いたものを、ひとつひとつ言語省国語辞典で調べ、辞書にない場合はその語を一覧表に書き加える、というものだ。
プログラムを動かした結果は、次のとおりだった。
私はプログラムを改良し、もういちど試した。検索と検索の間にはは三十秒空け、VPNを使ってIPアドレスを毎回変更するようにし、活用している動詞はもとに戻してから調べるように変えた。
コンピュータの電源を切らずに眠り、約六時間後の翌朝に結果を確認した。六時間は三百六十分で、一分間に二語句を検索することになるので、約七百二十語句が検索されたことになる。
結果、辞書に載っていなかった語句は百を超えていた。私の書いた自分史のおよそ七分の一が、言語省国語辞典に載っていないということだ。これはすなわち、自分の人生の七分の一が、公的な権力によって、なかったことにされたとはいえないだろうか?
なにしろ言語省国語辞典というのは、日本語を使うすべての人に対して強い影響力を持っているのだ。母語話者だろうが非母語話者だろうが、だれもが言語省国語辞典を使って言葉を調べる。言語省国語辞典から百の語句が消えることは、日本語から百の語句が消えることと同じだ。
では、英和や和英の辞典はどうだろうか?私はコンピュータで言語省英和辞典を開き、「sin」と入力した。
悪いこと。道徳あるいは宗教の価値観に反し、非難されるべきこと。
a crime
私はウェブブラウザを開いた。そして、言語省のウェブサイトから、小さな字で表示されている「その他」をクリックし、「ご意見・お問い合わせ」のページに移った。私はその問い合わせ欄に、こう書いた。
なぜ、これらの語句は辞書に載っていないのでしょうか。編集がずさんすぎて見落とした、ということでしたらまだましです。まさかとは思いますが、日本語の語彙を削減しているのではないでしょうね。
結局のところ、その日も次の日も、これに関連することはなにも起きなかった。電子メールの受信箱を開いても、言語省からの返信はなかった。
ワークショップを開いて、子どもや若年層に言語の面白さを啓発する――たしかにこれは悪いことではないだろうし、社会にもある程度の利益をもたらしていることは否定できない。しかしながら、税金を使って毎月行うべきことかというと、疑問符をつけないわけにはいかないのだ。
思えば正書法や文法だって、政府が定めなくてもたいした問題にはならないのではないだろうか。二千二十八年以前にも、横書きのウェブサイトで読点に「、」を使われていることがあった。しかしそれでも批判を受けたり、裁判所から修正を求められたりすることはなかったはずである。
一方で、私の友人はいつも「,」を使っていたが、それを古すぎるとからかう人はいなかった。
きらきらと輝くこのかぶせものの下には、真っ黒な虫歯が身を潜めている。私はかぶせものの上でかざりつけをしていたに過ぎないのだ。ならば私はここにいることはできない。私の良心は欺瞞によって生きることを許さない。
さいわい私には八百万円の貯金と、そしてものを書く才能がある。たとえ言語省を離れたとしても、生活にさしせまった困難が生まれることはないだろう。こうして私は、言語省を退くことにしたのである。
言語省の職員から内容に関する指摘を受けた。私はそれを読んで、はたと考え込んでしまった。ご本人の許可を得たので、ここに抜粋して掲載させていただきたい。
たとえば、差別語は人を不快にさせるから消されるべきだし、わかりづらい言葉はわかりづらいから残す価値はない。かつて存在していた語句が残っていたとしたら、君は「キモい」、「KY」と呼ばれるべきなのだ。これを現在の言葉に直せば、「秩序に反し、周囲の人々を不快にさせる」、「規範を理解せず、混乱をもたらす」となる。
いまから七十年前といえば、千九百八十四年である。千九百八十年代の辞書なら、言語省に消された語句を補うには十分といえるのではないだろうか。
一般社団法人日本語文化芸術保存協会会長
久下沼陽向
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